「それゆえ、見よ、と主は言われる。このところがもはやトフェトとか、ベン・ヒノムの谷とか呼ばれることなく、殺戮の谷と呼ばれる日が来る。」  エレミヤ書19章6節

 新共同訳聖書は、19章1節から20章6節までの段落に、「砕かれた壺」という小見出しを付けています。

 1~3節に、「行って、陶工の壺を買い、民の長老と、長老格の祭司を幾人か連れて、陶片の門を出たところにある、ベン・ヒノムの谷へ出て行き、そこでわたしがあなたに語る言葉を呼ばわって、言うがよい」と主がエレミヤに告げられました。

 これは、以前行われた「麻の帯」を用いた預言(13章1~11節)や「妻をめとらない」ということで示す預言(16章1~13節)などと同じく、象徴的な行為で主なる神の御言葉を告げる「行動預言」と呼ばれるものです。

 「壺」はヘブライ語で「バクブーク」といいますが、壺の中のものを注ぎ出すときの「ドクドク、ゴボゴボ」といった擬声音が器の名となったようです。

 「陶片の門」は聖書中、ほかに言及がなく、どこにあったのか不明です。ネヘミヤ2章13節などに言われる「糞の門」と同じではないかと考える学者も多いと、岩波訳の脚注に記されています。「陶片の門」という名がついたのは、門の近くに「陶工の家」(18章1節)があり、陶片が捨てられる場所がその側にあったからだろうと想像されます。

 冒頭の言葉(6節)で、「トフェト」とは「燃やす」という言葉と関連して、暖炉とか火の祭壇という意味に解釈されます。7章31節に「彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた」と記されていました。

 このことについて、列王記下23章10節に「(ヨシヤ)王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し、誰もモレクのために自分の息子、娘に火の中を通らせることのないようにした」という記事があります。モレクとは、ヘブライ語の「王」(メレク)に「恥ずべきもの」(ボシェト)の母音をつけて発音したもので、「恥ずべき王」という意味であろうと思われます。

 列王記上11章7節に「アンモン人の憎むべき神モレク」とあり、モレクがアンモンの国家神であることを示しています。同11章33節には「アンモン人の神ミルコム」と記されています。この「ミルコム」というのが本来の呼び名なのでしょう。イザヤ章57章9節に「メレク神」とあり、イスラエルの人々は「メレク」と呼んでいたのではないでしょうか。 

 「息子たちを火で焼く」とは、最も高価な犠牲を捧げて、神に自分たちの祈りを是非とも聞き届けて欲しいと願う行為です。特にそれは、危機的な状況からの救いを求めるようなときに行われます。いわゆる「人身御供」の一形態ということです。

 列王記下3章27節に「そこで彼(モアブ王)は、自分に代わって王となるはずの長男を連れて来て、城壁の上で焼き尽くすいけにえとしてささげた」とありました。モアブの神ケモシュへの人身御供が「イスラエルに対する激しい怒り」となって、イスラエル軍が撤退することになり、モアブ王は危機を脱することが出来ました。

 しかるに主なる神は、「自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない」(レビ記18章21節)と、律法で明確に禁止しておられます。ゆえに、それを行う行為は子ども殺しにすぎず、まさにそこは、冒頭の言葉のとおり、「殺戮の谷」と言わざるを得ないところになっているというわけです。

 そのような場所が、エルサレム神殿のすぐ傍らにあるというのは、実に驚きです。これは、ごく一部の人が、そのような主に背く行為をしていたというのではなく、王がそれを禁止しなければ止められない、否むしろ王自らそれを行っていたというほどの影響力を持っていたわけです(列王記下16章3節、17章17節、21章6節)。

 それは逆に、まことの神を信じる信仰が失われて来ていることを、如実に表していると言えます。そこで、神はエレミヤに壺を買わせ(1節)、それをベン・ヒノムの谷まで持って行かせ(2節)、そして共に連れて行った民の長老や、長老格の祭司たちの前でその壷を砕かせました(10節)。

 そして、「陶工の作った物は、一度砕いたなら元に戻すことができない。それほどに、わたしはこの民とこの都を砕く。人々は葬る場所がないのでトフェトに葬る。わたしはこのようにこのところとその住民とに対して行う、と主は言われる。そしてこの都をトフェトのようにする。エルサレムの家々、ユダの王たちの家々は、トフェトのように汚れたものとなる」(11節以下)と言わせました。

 ベン・ヒノムの谷は、エルサレムの都の南にあるヒノムの谷のことで(ネヘミヤ記11章30節)、東の端がケデロンの谷に接しています。ヒノムの谷をヘブライ語で「ゲー・ヒノム」と言います。

 マタイ5章22節に「火の地獄」という言葉があります。新改訳は「燃えるゲヘナ」と訳しています。新共同訳聖書は「ゲヘナ」を「地獄」と訳しているのですが、この「ゲヘナ」は、ヘブライ語の「ゲー・ヒノム」のギリシア語音写なのです。

 ヨシヤ王の宗教改革で、ベン・ヒノムの谷にあるトフェトが汚されました(列王記下23章10節)。それは、その場所で二度と息子・娘を燃やして献げる儀式を行うことが出来ないように、そこを町の廃棄物や罪人の遺体の焼却場にされたということです。そうしたことから、「ゲヘナ」が永遠の刑罰を受ける場所を表すようになりました。

 12節に「この都をトフェトのようにする」とあります。エルサレムの都がトフェトのようになるとは、トフェトのある場所がヒノムの谷、ゲヘナなのですから、エルサレムの都がゲヘナになるということです。神がご自身の名を置かれた永遠の都エルサレムが、永遠の刑罰が降る地獄となるというのです。それが、人間の罪なのだと思います。

 人間は、神聖なものを汚します。そして、清めることは出来ません。最も神聖なもの、それは神の御名です。主の祈りにおいて「御名を崇めさせたまえ」と祈りますが(マタイ6章9節)、原語は「あなた(主)の名が清められますように、聖なるものとされますように」という言葉です。清めれらるように、ということは、御名が汚されているということです。

 誰がどのようにして、主の御名を汚したのでしょうか。それは、私たちの不従順、不信仰です。だから「御名が清められるように」と祈るのです。それでは、誰が清めるのですか。それは、御名を汚した私たちに出来ることではありません。主ご自身が清められるのです。だからこそ、天の父なる神にそう祈り願っているのです。

 神はご自分の御名をどのようにして清められるのでしょうか。それは、神の御子イエス・キリストが私たちのすべての罪の呪いをご自身の身に受け、血を流されることによってです。それによって、私たちは罪赦され、神の子どもとされ、永遠の御国に本籍を持つ者として受け入れられるのです。だから、神を「わたしたちの父」と呼ばせていただくことが出来るのです。

 慈しみ深く憐れみ豊かな主に信頼し、謙虚に主の御言葉を受け入れ、喜びと感謝をもってその導きに従いましょう。

 主よ、私たちの傲慢と不信仰の罪をお赦しください。御名が清められますように。御国が来ますように。うなじを柔らかくし、主の御言葉に聞き従わせてください。私たちを試みに遭わせず、悪しきものからもお救いください。力も御国も栄光も、すべてあなたのものだからです。 アーメン