「彼らは言った。『それは無駄です。我々は我々の思いどおりにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから。』」 エレミヤ書18章12節

 1節以下に、主なる神とイスラエルの関係が、陶工と粘土というたとえで語られます。陶工が主、粘土がイスラエルというわけです。これは、イザヤ書29章16節、45章9節、64章7節、そして、新約聖書ローマ書9章20節以下にも取り上げられている表象です。

 陶工は、粘土をよくこねた後ろくろで思うままに成形し(3節)、それに上薬をかけて窯で焼き、器を作ります。気に入らなければ何度でも壊し、作り直します(4節)。これは、神が繰り返し背き続けるイスラエルを、ご自身の望まれる理想的なかたちに作り変え、再生されると解釈することが出来ます。

 ただし、この箇所では想定されていませんが、作り直せるのは窯で焼く前までの段階で、薬をかけて火を入れてしまえば、もう後戻りは出来ません。温度の加減で思う色が出なかったり、変形してしまったようなものは、砕かれ、捨てられるほかないのです。

 最も強調されるべき解釈は、陶工と粘土の関係です。つまり、陶工は、自分の思いのままに粘土を扱い、土器を作ります。気に入らなければ、壊して作り直します。この関係が逆転することはありません。陶工の作風が気に入らないので、陶工を取り替えるとか、はたまた陶工が粘土にこびて、粘土が願う通りの形に仕上げるなどということは、あり得ません。

 主なる神とイスラエルの関係はどうでしょうか。主は「わたしの民はわたしを忘れ、むなしいものに香をたいた。彼らは自分たちの道、昔からの道につまずき、整えられていない、不確かな道を歩んだ」(15節)と言われます。

 「むなしいもの」(シャーヴェ)は、「むなしさ、偽り」という普通名詞で、口語訳はこれを「偽りの神々」と訳しています。エレミヤ書にシャーヴェが5回用いられていますが。異教の偶像を意味する言葉として用いられるのはここだけです。真の神ならぬ、異教の偽りの神々に頼るのは空しいことだという表現と言ってよいでしょう。

 この箇所は、2章13節の「生ける水の源であるわたしを捨てて無用の水溜めを掘った。水をためることのできないこわれた水溜めを」という言葉と同様に、主なる神との確かな関係、その生活を捨てて、空しい異教の偶像に依り頼んだ結果、主の保護を失い、途方に暮れる結果となるということです。

 かつて、ヒゼキヤの代にアッシリアの大軍にエルサレムの都が包囲され、絶体絶命の危機に陥ったとき、主が御使いによってその大軍を打たれ、一夜にして解放されたという出来事があり、人々の心にエルサレムの都の不滅神話が宿っていました。だから、主の裁きによってユダとエルサレムが滅亡し、多くの人々が捕囚となると語るエレミヤの言葉は、聞き捨てならないものでした。

 18節に「エレミヤに対する計略」が記されています。これは、11章19節以下などにも記されていたことですが、同じ事件というよりも、エレミヤに危害を加えよう、いや殺してしまおうという策動が、繰り返しなされていたということを示しているのでしょう。

 イスラエルの民は、「祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい」(18節)と語ります。これは、自分たちは御言葉に従っている。エレミヤの方が、まるでバビロンの御用預言者でもあるかのごとき空しい預言を繰り返して、神に背いている。それに耳を貸すわけにはいかないということです。

 しかし、そのような民の態度こそ、主が「見よ、わたしはお前たちに災いを備え、災いを計画している。お前たちは皆、悪の道から立ち帰り、お前たちの道と行いを正せ」(11節)と言われるのに対して、冒頭の言葉(12節)のとおり、「それは無駄です。我々は我々の思い通りにし、おのおのかたくなな悪い心のままにふるまいたいのだから」と答えていることなのです。

 自分で「おのおのかたくなな悪い心のままに振る舞いたい」という言い方をするとは思えませんが、しかし、主の御言葉に耳を傾けず、その導きに従おうとしない態度は、頑なな悪い心のままに振る舞うことだと示しているのです。このように、自分をわきまえず、主に対して誤った態度、思い上がった心の姿勢でいることを、聖書は「罪」と呼んでいます。

 主なる神は罪を裁かれますが、イスラエルを断罪し、災いを下すと宣告した「その民が、悪を悔いるならば、わたしはその民に災いをくだそうとしたことを思いとどまる」(8節)と言われます。11節は、まさにその悔い改めを呼びかける、主の招きの言葉です。

 悔い改めの呼びかけを拒絶するならば、宣告どおりの裁きが自らの上に下されることになります。そして、民の罪を裁く災いが臨んだときに主の助けを叫び求めても、それはもはや手遅れです。

 パウロがローマ書11章20節で「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」と告げ、同22節に「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」と記しています。

 主は、不信仰不従順のイスラエルの民をその幹から切り離し、かわりに私たち異邦の民を接ぎ木してくださいました。本来の枝であるイスラエルに厳しい姿勢で臨まれた主は、接ぎ木された枝である私たちをも厳しく取り扱われることでしょう(同21節)。

 パウロの告げるとおり思い上がらず、主を畏れ、主の慈しみの御手の下に身を低くし、朝ごとに御言葉に耳を傾け、常にその導きに従って歩みましょう。

 天の父よ、主イエスはまことのぶどうの木、私たちはその枝です。主イエスにしっかりとつながり、豊かに実を結ぶことが出来ますように。そのために、私たちの心を探り、御前にふさわしくないものを取り除いてください。そして、聖霊を通して注がれる神の愛と恵みで私たちの心を常に満たしてください。御名が崇められますように。 アーメン