「『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らを、わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる。」 エレミヤ書16章15節

 14節以下の段落には、「新しい出エジプト」という小見出しがつけられています。これは、前の段落で民が神の裁きにより、「わたしはお前たちをこの地から、お前たちも先祖も知らなかった地へ追放する」(13節)と言われていたことを受けて、バランスを取るかのような配置です。

 まず14節で、「見よ、このような日が来る、と主は言われる。人々はもう、『イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる』とは言わず」と言い、続けて冒頭の言葉(15節)のとおり、「『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる。わたしがその先祖に与えた土地に帰らせる」と告げています。

 イスラエルの人々は、かつてはエジプトの奴隷でしたが、主の憐れみにより、モーセに率いられてエジプトを脱出、400年あまりの奴隷生活にピリオドを打ちました。彼らは40年間荒れ野を旅した後、約束の地に導き入れられ、自分たちの国を建設することが出来ました。

 イスラエルをエジプトから解放するためになされた主なる神の偉大な救いの御業を記念するために、過越祭をはじめ(出エジプト記12,13章)、七週祭、仮庵祭を守ることが定められました(レビ記23章、申命記16章など)。十戒は、荒れ野を旅している途中で与えられました(出エジプト記20章)。

 イスラエルの民は、自分たちをエジプトから解放してくださった主と契約を結びました(同24章)。その契約とは、イスラエルの民が主に聴き従うなら、主がイスラエルの神となられ、イスラエルの民をご自分の宝、祭司の王国、聖なる国民となるというものです(同19章4~6節)。ここから、神の民イスラエルの歴史が始まったと言ってよいでしょう。

 それがここで、人々が自分たちの主なる神を呼ぶのに、「エジプトから導き上られた主」と言うのではなく、「北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主」(15節)と言うようになると言われるのです。

 「北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られる」とは、第二の出エジプトというべき出来事で、北の国バビロンに追いやられたユダの民が、捕囚の苦しみから解放されて、エルサレムに帰ることが出来るということです。

 15章2節に「捕囚に定められた者は、捕囚に」とありました。疫病や剣、飢えに定められたとは、死を意味したことでしょう。しかし、捕囚に定められた者には、希望があります。「生きて虜囚の辱を受けず」とは東条英機陸相の戦陣訓の一節ですが、しかし、生きていればこそ、明日に希望を持ち、新たな恵みを味わうことが出来ます。

 イスラエルの民がバビロン捕囚の憂き目を見るのは、彼らが他の神々に従って歩み、それに仕え、ひれ伏し、主を捨て、主の律法を守らなかったという罪と悪のゆえでした(11,12節)。主は「わたしは彼らの罪と悪を二倍にして報いる」と言われます(18節)。

  現実には、第一次バビロン捕囚(列王記下24章14節以下)が紀元前597年、第二次バビロン捕囚(同25章6,11節)が前587年に起こり、ペルシアのキュロス王による解放が前538年のことですから、先の者は60年間、後の者たちは50年間、バビロンで捕囚として過ごしました。

 「人生50年」と考えると、バビロンに捕囚として引いて行かれた第一世代がエルサレムに帰って来くるとは、なかなか考え難いところです。帰国を果たせるのは、子あるいは孫ということになります。とき満ちて解放の恵みを味わうまで、民が神の言葉に耳を傾け、落ち着いて捕囚の地で家庭を築き、子をなし、孫を持つようにと、イスラエルの民に求めておられるわけです(29章4節以下参照)。

 19~20節に「あなたのもとに、国々は地の果てから来て言うでしょう。『我々の先祖が自分のものとしたのは、偽りで、空しく、無益なものであった。人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか』」とあります。

 バビロンから解放されるのは、イスラエルの民だけではなく、様々な国の人々がいます。彼らは、偶像の空しさ、無益さを知り、天と地を造られたまことの神を求めてやってくるのです(10章11節、32章17節参照)。

 エレミヤは31章で「新しい契約」について語ります。この契約は、イエス・キリストの十字架の贖いによって実現しました。そして、主イエスを信じる者は誰にでも、神の子となる資格が与えられました(ヨハネ福音書1章12節)。今日、私たちもその恵みに与ったのです。まさに、「あなたのもとに、国々は地の果てから来て言う」という御言葉が、ここに成就しているのです。

 イスラエルの不従順の結果、神の恵みと憐れみがイスラエルの民から異邦の民にまで広げられました(ローマ書11章30~32節)。イスラエルが捕囚から解放されるのと同様、私たちが神の子とされることも、まさに一方的な神の恵みでした。

 この恵みに感謝し、日々新たな思いで神の前に進み、その御言葉に耳を傾けましょう。

 主よ、恵みと導きを感謝します。絶えず新しい聖霊の油を受け、心に喜びと感謝の火を燃やし、周りの人々に主の愛と恵みを力強く証しすることが出来ますように。日々新しい恵みを受けて、絶えず新しいほめ歌を歌わせてください。軽率に言葉を吐かず、熟慮して、信仰に基づく言葉で語ることが出来ますように。 アーメン