「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが軽率に言葉を吐かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする。」 エレミヤ書15章19節

 1節で「たとえモーセとサムエルが執り成そうとしても、わたしはこの民を顧みない。わたしの前から彼らを追い出しなさい」と、災いを下す決定はもはや変更されないことを確言されます。

 モーセは、荒れ野の旅において主なる神の前に呟き、背いて怒りを買ったイスラエルの民のために、何度も執り成しの祈りをし、主はその祈りを聞いて災いを思い返されていました(民数記11章、14章、17章など)。

 また、ミツパで聖会を開いていたイスラエルにペリシテ軍が襲いかかろうとしたのを、サムエルの執り成しを受けて、主がペリシテを討たれ、サムエルの時代を通じてペリシテが抑えられたということが、サムエル記上7章5節以下、13節に記されています。

 モーセとサムエル、イスラエルを代表する祈り手二人の、イスラエルのための執り成しの祈りを聞いてくださらないということは、もはや主が災いを下されるのを止めることは出来ないということです。

 主は、疫病か剣か飢えか、もしくは捕囚によって、イスラエルを罰すると言われます(2節)。最初の三つは、14章12節にも挙げられていました。そしてこれらは、民の命を奪うものです。

 最後に「捕囚」と言われ、それは過酷な運命に違いありませんし、国が滅びることではありますが、しかし、民は捕囚の地で生きることになります。彼らがやがてイスラエルを再建するのですが、今はまだ、そのことが明らかにはされていません。

 エレミヤの告げるこの預言はまったく不人気で、「争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている」(10節)と言われるほどに民の間に物議を醸し、それによって迫害を受けました(15節参照)。

 ここに来てエレミヤは、「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか」(10節)と、あのヨブのように、自分の運命を呪う言葉を口にします(ヨブ記3章1節以下参照)。そう語るのは、1章19節で「わたしがあなたと共にいて、救い出す」と言われた主の言葉が履行されていないとエレミヤが考えたからでしょう。

 新共同訳、口語訳は11節をエレミヤの言葉としていますが、原文は、冒頭に「主は言われる(アーマル・ヤハウェ)」と記されています。つまり、11~14節はエレミヤが主の言葉を引用して語ったことと解釈すべきではないでしょうか。であれば、訳文が少々違ってきます。

 岩波訳によれば、11節は「ヤハウェは言われた、『必ずわたしは、よきことのために、あなたを解き放つ。必ずわたしは、災いのときに、また苦難のときに、敵をして、あなたに執り成しをさせる」とされます。新改訳、聖書協会共同訳もほぼ同様です。この言葉によると、エレミヤは上記1章19節とともに、11~14節の主の御言葉の実現を求めて、現状を訴えていることになります。

 そして、主がこの御言葉の約束をいつ実行してくださるのか、いつまでも果たされないのは、もしや主に見捨てられたのか、主に欺かれたのかとさえ考えてしまったのです。18節に「なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました」と語っています。

 ここで「当てにならない流れ」とは、パレスティナに見られる水の流れていないワーディといわれる川のことです。主なる神を「生ける水の源」(2章13節)と呼んでいたのに、ワーディのようになられたと言わなければならないのは、なんと皮肉なことでしょう。

 16節の「あなたの御言葉が見出されたとき、わたしはそれをむさぼり食べました」という言葉は、恐らく、エレミヤの召命の出来事を指していると思われます。1章6節では「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と、預言者就任を拒むような姿勢を見せていました。

 それをここで、「わたしはそれをむさぼり食べました」と語って、預言者として嫌々働いて来たのではない、むしろ喜んで仕えて来たことを、「あなたはご存じのはずです」(15節)と言い、故に「わたしを思い起こし、わたしを顧み、わたしを迫害する者に復讐してください」と願うのです。つまり、喜び躍っているはずの心に、主に対する不信や不満が燻っているわけです。

 主から見捨てられたと考えているエレミヤに、冒頭の言葉(19節)のとおり「あなたが帰ろうとするなら、わたしのもとに帰らせ、わたしの前に立たせよう」と主は言われます。主なる神は決してエレミヤを見捨ててはいないゆえに、主への信仰とその使命に固く立つようにと招いているのです。

 「帰ろうとする」、「帰らせ」は、「向く、帰る(シューブ)」という言葉です。エレミヤは、民に向かい、神に対か得るように、神の方を正しく向くようにと呼びかけていました(4章1節など)。いつの間にか、エレミヤもずれてしまっていたのでしょうか。

 けれども、イスラエルの民の罪をおのが罪として告白していたエレミヤに対し、改めて主のもとに帰れと言われているのではないかとも思われます。そしてそれは、捕囚とされる人々に対しても、悔い改めを呼びかける言葉として告げられているのではないでしょうか。

 御言葉を聴いたとき、心燃やされて立ち上がっても、この世の現実にぶつかってその炎が吹き消され、情熱が冷めてしまうというのは、私たちがよく経験するところです。しかし、私たちに求められているのは、情熱や熱心さなどではありません。主なる神とその御言葉に信頼する信仰です。

 「あなたが軽率に言葉を履かず、熟慮して語るなら、わたしはあなたを、わたしの口とする」(19節)と言われているごとく、私たちの心から御霊の火を消さないように、むしろ新たな御霊の油が注がれるように、信仰に固く立ち、聖霊を通して示される主の言葉を信仰をもって語りましょう。

 主よ、あなたは私たちの弱さをよくご存知です。いつも心が聖霊に満たされ、喜び、心躍らせて主にお仕えすることが出来ますように。絶えず御言葉に基づく信仰の言葉を語らせてください。常にあなたが共にいて、私たちを助けてくださることを信じ、感謝ます。御心が行われますように。 アーメン