「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ。」 エレミヤ書14章14節

 1節に「干ばつに見舞われたとき」とあります。イスラエルはこれまで度々干ばつに見舞われました(創世記12章10節、26章1節、41章54,57節、ルツ記1章1節など)。その度に、イスラエルの民は主なる神に救いを求めたことでしょう。

 けれども、今回エレミヤに臨んだ主の言葉は、「ユダは渇き、町々の城門は衰える。人々は地に伏して嘆き、エルサレムは叫びをあげる」(2節)というものでした。即ち、今回エルサレムが干ばつに見舞われたのは、主によるということです。

 エレミヤは、「我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。我々の背信は大きく、あなたに対して罪を犯しました」(7節)と、エレミヤ自身がイスラエルの一員として、イスラエルを代表するようにして、主に向かって罪責を告白しています。

 「御名にふさわしく行ってください」と語り、続く8節で「イスラエルの希望、苦難のときの救い主よ」と呼びかけ、「なぜあなたは、とまどい、人を救いえない勇士のようになっておられるのか。主よ、あなたは我々の中におられます。我々は御名によって呼ばれています。我々を見捨てないでください」(9節)と、主の憐れみを願い求めます。

 2章13節に「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」という言葉がありました。救いを求める声に主が答えてくださらないのは、イスラエルの民が、生ける水の源である主を捨てたからです。それこそ、干ばつを招いた行為だったのです。

 11,12節に「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。彼らが焼き尽くす献げ物や穀物の献げ物をささげても、わたしは喜ばない。わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」と記されています。

 この民のために祈ってはならないというのは、7章16節、11章14節についで3度目です。3度目の正直ということでしょうか。主なる神はイスラエルの祈りを聞かず、献げ物を受け入れず、「剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」という決意をされたのです。

 エレミヤが、偽りの預言者たちの告げたイスラエルの民への言葉を取り上げて、「預言者たちは彼らに向かって言っています。『お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える』と」(13節)と主に告げます。

 冒頭の言葉(14節)は、それに対する主の答えです。主は、「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない」と言われました。

 「わたしは剣と、飢饉と、疫病によって、彼らを滅ぼし尽くす」(12節)と言われる主の言葉が真実なら、そして勿論、主は真実であられるので(申命記32章4節、詩編89編9節、イザヤ書25章9節など)、「お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない」(13節)という預言者たちの言葉は、まさに「偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によって」語られたことになります。

 ただ、イスラエルの民にとって、滅びを語るエレミヤの預言と、主の名によって「確かな平和を与える」と告げる預言者たちの預言、どちらが真実な主の言葉であるか、見分けがつくでしょうか。実際には、とても難しい問題だと思います。

 預言者たちの預言が真実であれば、真に幸いですが、エレミヤの預言が真実であれば、イスラエルに災いが下されることになります。そうなったとき、預言者たちに欺かれたと悟っても、もはや手遅れということになってしまいます。

 しかし、預言者たちの数の上から、そして語られる言葉から、エレミヤの預言を真実と受け止めることは、決して容易いものではありません。「こっちの水は苦いぞ」という言葉よりも、「こっちの水は甘いぞ」という言葉の方に誘われてしまうからです。常日頃から、主の御言葉を聴き、その真実、神の御心をわきまえる訓練が必要でしょう。

 主イエスが、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」(ヨハネ福音書7章16,17節)と言われました。

 さらに、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同37,38節)と語られました。

 絶えず主の御言葉に耳を傾け、主が約束された「生きた水が川となって流れ出るようになる」という恵みに与らせて頂きましょう。

 主よ、私たちは生ける水の源であるあなたを離れて、生きることは出来ません。絶えず私たちを御言葉と御霊によって、正しい道に導いてください。主がお与えくださる命の水に与り、私たちの内から永遠の命に至る水が泉となってわき上がりますように。聖霊に満たされて、主の恵みを証するものと慣らせてください。弱い私たちを試みに遭わせないでください。悪しきものから絶えずお救いください。御名が崇められますように。 アーメン