「主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される。」 エレミヤ書10章13節

 10章の前半16節までは、主なる神に背いて異教の偶像を拝む空しさを笑い(2~5,8,9,14,15節)、まことの神の力とその御業を誉め讃えています(6,7,10~13,16節)。12~16節は、51章15~19節で再び語られます。

 なお、11節は紀元前5世紀頃のものと推測されるアラム語で記されており、韻律の関係から異境的環境下(たとえばバビロンにおいて)、偶像に対する呪文ではないかと思われます。それを後代の書記が関連するこの文脈の欄外注として書いたものが、後に本文に取り入れられたのではないかと想定されています(岩波訳脚注参照)。

 異教の神々の像は、木を彫って作られ(3節)、その上に金や銀の箔を張って飾られています(4節)。勿論、偶像が口を利いたり、歩き出したりすることはありません。エレミヤはそれを、「きゅうり畑のかかしのよう」と笑います(5節)。

 像を拝んでいる人々も、人間が神を作れると考えてはいないでしょうし、神に模して作られた木像が実際に口を利き、歩き出すとは考えていないでしょう。そして、彼らが拝んでいるのは、木像そのものではなく、木造の姿かたちで表されている神を拝んでいるのだと言うでしょう。

 しかし、美しい自然を写真に収めたり、絵に描いてストックするように、目に見えない神を描き、また像に刻むことは出来ません。神にかたちを与えるということは、神を自分のものとし、自分の思いの中に神を閉じ込めようとする行為にほかならないのではないでしょうか。

 また、神像を作らなければよいということでもありません。かつて、ローマ・カトリック教会が免罪符を売り出したのは、教会堂を建て直す資金を集めるという自分たちの目的のために、神の救いの恵みを利用するということで、これも神を偶像化した所業と言わざるを得ません。

 その意味では、神の姿かたちであれ、御言葉であれ、御業であれ、私たちがそれを定義づけて表現しようとするとき、絵画や彫刻ばかりでなく、音楽、あるいはまた言葉でするにせよ、絶えず偶像化の危険が伴っていることになります。そのような罠に陥らないためには、常に神を畏れ、その御言葉に信仰をもって従順に聴き従うほかありません(詩編119編9節以下など)。

 エレミヤは「あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方」(6節)と、主の比類のなさを告げます。「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」(10節)であり、「御力をもって大地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を広げられた」(12節)、「万物の創造者であり、イスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主」(16節)と言われます。

 一方、「天と地を造らなかった神々は、地の上、天の下から滅び去る」(11節)と告げます。偶像礼拝の愚かさ、空しさを、このような呪詛の言葉にして教えているわけです。

 そして、冒頭の言葉(13節)のとおり、「主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される」と語ります。天地の創造者は、それらの地からの統治者であられるのです。

 イスラエル周辺では、天と地、稲妻や雨なども、神として礼拝する対象になりました。エレミヤは、それらはすべて主なる神の被造物であり、まことの神は、御声をもってそれらのものを従わせておられると告げているわけです。

 1993年の秋、甲子園球場で大きな集会が開かれた際、冒頭の言葉からテーマソングが造られました。日本全国から毎日3万人以上の人々が球場に詰め掛け、スタンドやグランド内の席を埋めました。そして毎晩何百人もの人々が主イエスを信じて救いに与りました。

 翌年には、米国の伝道者ビリー・グラハムが来日して、東京ドームで集会が開催され、その様子が衛星放送で全国各地に同時配信されました。大きなスクリーンに映し出される集会の光景を見ながら、すごい時代になったなあと思ったものです。

 神がその御力を表されるなら、日本国内でもっともっと大きな集会が催され、多くの人々に救いの御業が開かれるようになることでしょう。神の恵みが大雨のごとく降り注ぎ、いたるところで偉大な神の御業を見るようになるでしょう。

 そういうことが起こるのか、どのように起こされるのか、勿論定かではありません。期待したとおりになってもならなくても、私たちは万物の創造者にして支配者であられ、私たちをご自分の民に加えてくださった憐れみ豊かな、他に並び立つもののない絶対者なるお方を、主、わたしたちの神と信じ、キリストに従って歩ませていただいています。

 日々主を尋ね求め、御霊に満たされ、主の証人としての使命を果たすことが出来るように、祈りましょう。家族の救い、知人友人の救いを求めて祈りましょう。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、その家族も救われます」(使徒言行録16章31節)と約束されているからです。

 主よ、あなたは御声をもって天地万物を創造し、御心のままにそれらを用いられます。この地に主の御業が表されますように。私たちの家族が、知人友人が救われますように。そのために私たちが用いられますように。喜びをもって御言葉に耳を傾け、導きに素直に従う信仰と、上よりの知恵を授けてください。御名が崇められますように。 アーメン