「これらはすべて、わたしの手が造り、これらはすべて、それゆえに存在すると、主は言われる。わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人。」 イザヤ書66章2節

 第三イザヤ(56~66章)が活動したのは、捕囚から戻ったイスラエルの民がエルサレムに第二神殿を建設したころだと言われます。ペルシア王キュロスによって解放され、意気揚々戻ってきた民を待ち受けていたのは、バビロンによって破壊され、荒れるにまかされていた、変わり果てた都の姿でした。つまり、国に戻れば、以前と同じ生活が出来るようになるというわけにはいかなかったのです。

 板張りのきちんとした家に住めたのは、ごくごく一部の者たちで、殆どは着の身着のままでとりあえず雨露を凌ぐといった貧しい生活環境でした。その上、外敵の侵入はある、旱魃による飢饉が襲うとなれば、神殿再建どころではない、城壁が築かれるのもいつになることやら、全く見当もつかなかったことでしょう。

 1節に「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか」と記されています。これは、神殿建設を促し、推し進めるための激励の言葉などではありません。人間が、神のお住まいになる神殿を建てることが出来るのか、いや、出来はしないと読めます。

 ソロモンが贅を尽くし、7年の歳月をかけてエルサレムに建てた神殿を神に奉献する儀式の中で、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(列王記上8章27節)という祈りをささげています。

 この言葉にしたがうとすれば、神殿を建てる必要などはないという結論になるでしょう。何しろ、「天が王座、地は足台」です。人が建てるどんな大きな建物も、天地万物を創られた神をお入れし、そこを安息の場として頂くというのは、全く不可能なことなのです。そうであれば、何のために神殿を建てたのでしょうか。神殿を建てたのは無駄なことだったというのでしょうか。

 ダビデが神殿を建てたいと願ったとき、主は、ダビデの子がわたしの名のための家を建てると言われました(サムエル記下7章10節、列王記上8章17節以下)。そして、ダビデの子ソロモンが神殿を建築し、祭具を神殿に納め、主の契約の箱を至聖所に安置したとき、主の栄光が神殿に満ちました(王上7章51節、8章1節以下、10,11節)。神がその神殿に現臨されたわけです。

 神殿は、主なる神に祈りをささげ、賛美を捧げて、神を礼拝する場所です。神が見られるのは、何をどれだけ捧げるかということよりも、どのような心で捧げるかということです。

 主イエスが、レプトン銅貨2枚を捧げた貧しいやもめの献金を、ほめられたことがあります(ルカ福音書21章1節以下)。1レプトンは1デナリオンの128分の1です。どんなに高く見積もっても100円に届きません。あるいは2レプトンで100円程度でしょうか。

 しかしながら、その女性にとって、それがその日の生活費の全部でした。それを献げてしまったあとの生活は、どうなったのでしょうか。そんな心配をすることもないほどに神に信頼し、あるいは神の恵みに感謝する思いが、その女性の心を満たしていたのです。

 神は冒頭の言葉(2節)の通り、「わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、わたしの言葉におののく人」と、イザヤを通して語られました。「苦しむ人」は「貧しい、弱い、悩む」という言葉です。また、「霊の砕かれた人」は、「霊、心」が「悔いる、打ちひしがれる、踏みにじられる」という言葉です。

 これは、謙遜な人という意味ではないでしょう。神殿を再建したくても、城壁を築き直したくてもなし得ない、その力がない、日々の生活に追われ、苦しんでいる人々、敵に苦しめられ、自然災害に脅かされている人ということでしょう。だから、神が彼らを顧み、守ってくださらなければ、生きてはいけません。

 「わたしの言葉の前におののく」というのは、御言葉の真実、御言葉の力を知るということではないでしょうか。「お言葉ですからやってみましょう」と網を投げて大漁を目の当たりにしたペトロが、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ福音書5章8節)と主イエスを畏れて、その御前にひれ伏したという出来事に、それを見ることが出来ます。

 ペトロは、神の御前に恵みを受けるに値しない罪深い者であることを思い知らされたのです。そのように主イエスの前に恐れ戦いたペトロに主イエスは、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(同10節)と言われました。真の畏れを抱いたペトロに、新たな使命をお与えになったのです。

 ペトロが主イエスを主、神と畏れてひれ伏した姿勢こそ、神の喜ばれる真の礼拝だったということでしょう。そのような思いで主とその御言葉に信頼し、自分の持てる2レプトンを精一杯捧げるとき、ソロモンも及ぶことのできない、神ご自身の建ててくださる神殿、神を礼拝するすべての民の祈りの家が、固く打ち建てられるのではないでしょうか。

 主の御言葉に日々耳を傾け、恐れ戦いてその実現を祈り求め、主の栄光を洗わす器として用いていただきましょう。

 主よ、あなたは恵みと慈しみに富み、私たちの必要を豊かに満たしてくださいます。感謝と喜びをもって、私たちのレプトン2枚を精一杯ささげます。御心のままにお用いください。そして、栄光を現してください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン