「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にものぼることはない。」 イザヤ書65章17節

 第二イザヤ(40~55章)は、「見よ、わたしは新しいことを行う」(43章19節、42章9節、48章6節参照)と語り、イスラエルの民の解放と帰還、繁栄の回復の希望を示しました。そして預言どおり、ペルシア王キュロスによって解放と帰還は果たされました。

 けれども、繁栄の回復や独立などは適いません。むしろ、貧しく苦しい生活の中で、イスラエルの民の間には、失望落胆が広がります。そこで、2節に「反逆の民、思いのままによくない道を歩く民」とあるように、再び異教の神々を頼ろうとする者が現れたのでしょう。

 3節の「屋根の上」は、「煉瓦の上」(アル・ハ・レベニーム)という言葉ですが(新改訳、岩波訳参照)、イスラエルの祭壇は石造りのときには自然石を用い(出エジプト記20章25節)、ソロモンの神殿は青銅製(列王記上8章64節、歴代誌下4章1節)ですから、レンガの祭壇はバビロンの宗教を思わせます(創世記11章3節参照)。

 4節の「墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし」は、死者の霊を呼び出し、霊媒を行うことであり(岩波訳脚注参照)、「豚の肉を食べ」は禁じられている食習慣ですから、イスラエルの民は、神に背いて、今なおバビロンにおける偶像礼拝の習慣に倣っているということを示しているようです。

 そこで、「見よ、わたしの前にそれは書き記されている。わたしは黙すことなく、必ず報いる」(6節)、「彼らの悪も先祖の悪も共に、と言われる」(7節)と告げ、その悪を裁かれます。しかしながら、あらためて「わたしの僕」と呼ぶ民を、彼らの中から選び出されます(9節)。選びの条件は明示されていません。

 主に背いて異教の神を拝む者は再び剣に渡され(11,12節)、そして、主の僕たちは、糧を得、酒に酔い、喜び楽しむことが出来ると言われます(13,14節)。裁きが語られるのは警告のためであり、主の御声に聴き従って、その祝福に与るように 、あらためて民を招いているのです。

 冒頭の言葉(17節)で言及されているのは、民族としての、即ちヤコブの末としてのイスラエルの民のことではありません。神はここで、「新しい天と新しい地を創造する」と言われているからです。

 第二イザヤが、出エジプトをモティーフとして、バビロン脱出を新しい神の国建設として語っているのに対して(43章16,17節)、第三イザヤは、天地創造物語になぞらえ、創世記1章27節と同じように、冒頭の言葉(17節)と続く18節に「創造する」(バーラー)という言葉を三つ重ね、神が新しい天地、新しいエルサレムを創造されると説いているのです。

 神は、新しいエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして創造するので、「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ」と言われます(18節)。それは、神がエルサレムを喜びとし、その民を楽しみとされるからです(19節)。「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」(19節)のは、神と民とが共に喜び、楽しむからなのです。

 主なる神が新しく創造される民の特色は、長寿であるということです。「若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者となる」(20節)と言われています。

 わが国の平均寿命は世界最高水準ですが、いまだ百歳に達してはいませんし、超高齢化社会の到来に、長寿を祝いつつもそれを祝福と受け止める空気は、残念ながらまだ生まれていません。そして、百歳に達していないから、「呪われた者」のように思えるということでもないはずです。

 もう一つのことは、「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、害することも滅ぼすこともない」(25節)と言われることです(11章6~8節も参照)。

 創世記1章30節に「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」とありました。神が創造された獣は初め、すべて草食で、肉食獣などいなかったわけです。

 それが、ノアの洪水後のノアと神との契約の中で、「動いて命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」(同9章3,4節)と語られて、人間に肉食が許されます。

 ゆえに、すべての動物は人の前に恐れ戦き(同2節)、噛み合い、殺し合うようになったわけです。それがここに、狼や獅子が草やわらを食べると言われているのは(25節)、天地創造のはじめ、主なる神が創造された最初の秩序が回復されるということになります。

 ただ、「蛇は塵を食べ物とし」と言われています。これは、女を唆して善悪の知識の木の実を食べさせた蛇を呪って、「このようなことをしたお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。おまえは、生涯這いまわり、塵を食らう」(創世記3章14節)と神が語られたところから、採られていると言ってよいでしょう。

 つまり、神の創造される新しい天と地は、狼や獅子に代表される強いものと、小羊や牛といった弱いものが共存共栄する世界だということであり、その新天新地において、神の僕とされた人は祝福を受けて過ごすことが出来るのですが、神に背くよう人を唆した蛇は、その呪いから逃れることは出来ないということでしょう。

 絶えず主の御顔を慕い求め、御言葉に耳を傾けつつ、祝福のうちを歩ませて頂きましょう。そうして、百歳までも健やかに主の御用を果たすことが出来る祝福を頂きましょう。

 主よ、あなたは背く民を招き、応えた者たちを僕として選び、御自分の民として祝福をお与えになります。それは、主の憐れみにほかなりません。迫害者であったパウロも、主の恵みによって、使徒・伝道者となりました。絶えず御声に耳を傾け、喜んで御言葉に聴き従います。御用のために用いてください。御心がなされますように。御国が来ますように。そうして、御名が崇められますように。 アーメン