「しかし、主よ、あなたは我らの父。わたしたちは粘土、あなたは陶工、わたしたちは皆、あなたの御手の業。」 イザヤ書64章7節

 4節前半に「喜んで正しいことを行い、あなたの道に従って、あなたを心に留める者を、あなたは迎えてくださいます」と記されています。預言者がこのように語るのは、イスラエルの民が喜んで正しいことを行って来たからではありません。むしろ、神に背いて異教の偶像を慕い、神に信頼せず、エジプトの武力に依り頼んで、神を悲しませ、その怒りを招いて来たのです。

 4節後半で、「あなたは憤られました。わたしたちが罪を犯したからです」という通りです。新共同訳は訳出していませんが、文頭に「見よ behold」(ヘン:強調詞)という言葉があります。1節以下ここまで語って来たことと、今彼らが置かれている状況に注目させる言葉です。

 その罪のゆえに、「聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し、わたしたちの輝き、わたしたちの聖所、先祖があなた(神)を賛美したところは、火に焼かれ、わたしたちの慕うものは廃墟となった」(9,10節)のです。

 もしも、神が因果応報の原則に基づいて評価される方であれば、イスラエルの民は、捕囚の苦しみから解放されることを期待することも出来なかったでしょう。しかるに神は、「期待もしなかった恐るべき業と共に降られ」(2節)、ペルシア王キュロスを用いてイスラエルの民をバビロン捕囚の苦しみから解放し、故国イスラエルに戻れるようにしてくださいました(歴代誌下36章17節以下)。

 ただ、帰国を果たすことは出来たものの、エルサレムの都は破壊されたままに放置されていて、神殿や城壁・城門の再建もなかなか進みませんでした。そこで預言者は憐れみ深い主に向かい、神殿が火に焼かれ、廃墟となったままであるのに、「それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え、黙して、わたしたちを苦しめられるのですか」(11節)と訴えます。

 前述の通り、バビロンからの帰国を果たせたのは、彼らが罪を悔い改め、喜んで正しいことを行っていたからではありません。同様に、帰国したイスラエルの民が、神の喜ばれることを行うようになっているから、預言者が神に助けを求めて訴えているということでもありません。

 5節で「わたしたちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった」というのは、過去のことではないでしょう。実際、そこに用いられている動詞は、未完了形です。つまり、その行為が今も続いていて、完了してはいないということです。

 預言者は、63章16節に続いて冒頭の言葉(7節)でも、主なる神を「我らの父」と呼び、その憐れみを求めます。主を父と呼ぶということは、自分たちが主の子どもであると自覚していることを意味します。子どもとして、親の助けを求めているわけです。

 このような表現は、預言者が神の憐れみを求めて祈ったのが、一度や二度ではないということを示しているようです。繰り返し何度も「アッバ、父よ」(ガラテヤ書4章6節)と神を呼びながら、その助けや導きを願ったことでしょう。

 主イエスは「神を畏れず人を人とも思わない裁判官とやもめ」のたとえ話(ルカ18章1節以下)を通して、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教え」(同1節)、「神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(同7,8節)と語られました。

 預言者はまた、「わたしたちは粘土、あなたは陶工」(7節)といいます。イスラエルの民と主なる神との関係を、粘土と陶工というイメージを用いて表す言葉は、45章9節にありました。

 20数年前、松山に住んでいた頃、贈り物にと湯飲みを砥部焼の陶工に依頼したことがあります。思いのほか時間がかかりました。思った色と形になるまで、何度も作っては壊し、壊しては作りしたのだそうです。だから、一組だけ作るのは、割に合わないと言われました。何も知らずに、ずいぶん無茶なお願いをしたものでした。

 ここに粘土と陶工のイメージを用いているのは、自分たちの味わっている苦しみを、自分たちをもう一度神の民として作り直すための陶工の手の業と考え、さらに子どもが親に全幅の信頼を置いているように、一切を神の御手に委ねるという信仰の表明でしょうか。

 それとも、一度高温の火で焼いた器は再び作り直すことは出来ず、強い力を加えたり、高いところから落としたりすれば、器は壊れ、砕けてしまうだけなので、自分たちが主の手によって作り出された作品であることを思い出し、苦しみから解放してくれるようにと願う言葉でしょうか。

 続く8節の「どうか主が、激しく怒られることなく、いつまでも悪に心を留められることなく、あなたの民であるわたしたちすべてに目を留めてくださるように」という言葉から、後者のように解釈すべきではないかと思われます。それは、ヨブ記10章9節で語られているところの状況とよく似ています。

 主が自分たちに目を留めてくだされば、また、自分たちが神の作品であり、神を「我らの父」と呼ぶ神の子らであることを思い出してくだされば、「熱情と力強い御業」、「たぎる思いと憐れみ」(63章15節)が自分たちに示されるでしょう。苦しみ呻いているわたしたちを見ながら、「黙して、わたしたちを苦しめられる」(11節)ことはないでしょう。

 「たぎる思い」は「はらわた、腸」(メーアイム)、「憐れみ」は「子宮、胎」(ラハミーム)という言葉です。父が、母が、我が子の苦しみを、はらわたの痛みとして覚えてくださるように、また、おなかを痛めて産んだ子どもとして覚えてくださるように、求めているのです。

 昨日も学んだとおり、父なる神は「贖い主」(63章16節:ゴーエール)として、イスラエルの民をその苦しみから贖い出してくださいました。それは、独り子イエス・キリストの命を代償として支払うという方法でなされました。

 十字架に苦しまれる我が子をご覧になる神の苦しみはいかほどだったでしょう。まさに、腸がちぎれる痛みだったでしょう。にも拘わらず、まさに主なる神は「ご自分を抑え、黙して」、我が子・主イエスを「苦しめられ」たのです。ここに、神の愛が示されます(第一ヨハネ4章9,10節)。

 愛と恵みの主に信頼し、御手の内にある土塊として、主の望まれるような者に作り替えていただきましょう。 

 陶器師なる主よ、私を憐れんでください。深い御憐れみをもって背きの罪を拭ってください。私たちの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。それ以外に、罪深い私たちが救われる道はないからです。御子イエスの贖いの業を感謝し、御名をほめ讃えます。主の恵みの証人として用いてください。 アーメン