「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」 イザヤ書56章7節

 56章から66章までは第三イザヤと言われ、第二イザヤの弟子の筆とする学者がいます。預言の内容から、第三イザヤの活動期はバビロン捕囚からの解放後、エルサレムに第二神殿が建てられた紀元前520~515年頃ではないかと考えられています。

 というのは、第二イザヤと第三イザヤには、類似性があるものの、第三イザヤには、第二イザヤに見られなかった神殿礼拝への言及、祭儀への関心、安息日を守ることなどが出て来るからです。それは、エルサレムの神殿が再建され、神殿で祭儀が再開されたこと、捕囚期以来、安息日を守ることが民族のアイデンティティーとして大切にされて来たと考えられます。

 冒頭の言葉(7節)で「彼ら」と言われているのは、6節の「主のもとに集ってきた異邦人」のことです。3節前半に「主のもとに集ってきた異邦人は言うな、主は御自分の民とわたしを区別される、と」と記されていました。つまり、主なる神が、ユダヤ人と異邦人の区別はないと言われたということになります。

 ということは、主の民であるか否かの区別は、いかなる血筋や民族に属する者であるかということで判別されるのではなく、その人が「正義を守り、恵みの業を行う」(1節)者であるか、また「安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人」(2節)かということで見極められるということです。

 詩編1編1,2節の「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」という言葉と同じ消息を表わしているでしょう。

 3節後半に「宦官も言うな、見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と」とあり、続く4,5節で「宦官が、わたしの安息日を守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」と約束されています。

 こうして、「会衆に加わる資格」を定めた申命記23章2~9節(口語訳・新改訳は1~8節)の規定が廃棄されました。異邦人が主の民とされる条件が6節に「主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を守るなら」と記されています。

 「わたしの契約を守る」というのが、旧約の律法をすべてきちんと守るということを意味するなら、それは、誰にも出来はしないでしょう(ローマ書3章20節参照)。主が深い憐れみをもって私たち異邦人をも主の民となるように招き、導いてくださるからこそ、「主に仕え、主の名を愛し、その僕となる」ことが私たちの喜びであり、幸いとなるのです。

 エフェソ書2章18~20節に「キリストによってわたしたち両方(ユダヤ人と異邦人)の者が一つに結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています」と言われていて、それは、イザヤが遠く待ち望んでいたことでしょう。

 主のもとに集ってきた異邦人が主の民とされることを、冒頭の言葉で「聖なる山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と語ります。「聖なる山」とは神の都エルサレムのことで、「わたしの祈りの家」はそこに建てられた神殿のことでしょう。

 主イエスが神殿の境内に入って商人たちを追い払われたとき(マルコ福音書11章15節以下)、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という7節の御言葉を引用されながら、祈りの家を強盗の巣にしてしまった(エレミヤ書7章11節参照)と言われました(マルコ11章17節)。それは、神殿を神への祈りをささげるという目的以外に利用しているということです。

 「祈りの家」とはしかし、建物のことだけではありません。祈りをささげる人々の集まりという意味でもあります。「祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」とは、祈りの家の一員になるということだからです。逆に言えば、私たちが祈るとき、決して一人で神の前にいるのではなく、神の家の喜びの祝いに連なっていることになるのです。

 私たちには、「すべての民の祈りの家」と言われるような、すべての民のために祈りの手を挙げること、また、すべての民と共に神の御前に祈りをささげる恵みと喜びに共に与るものとなることが期待され、求められています。

 ダビデは、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」(詩編23編5節)と詠いました。神が共にいてくださる喜びと平安の表現です。箴言15章15節にも「貧しい人の一生は災いが多いが、心が朗らかなら、常に宴会にひとしい」と言われています。

 私たちと共にいて、私たちの祈りに絶えず耳を傾けてくださる主に信頼し、御言葉と祈りによる交わりをとおして、絶えず宴会の喜びに与らせて頂きましょう。

 主よ、どんな時にも私たちを祈りへ、主の御言葉へと導き、祈りの家の喜びの祝いに連なることができますように。祈りの交わりを広く外に向かって開くことが出来ますように。共に主に仕え、主の御名を愛します。私たちを主の僕として用いてください。御名が崇められますように。この地に御心が行われますように。 アーメン