「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。」 イザヤ書55章6節

 55章は、第二イザヤ(40~55章)の締めくくりの章です。「55章は真に福音的な章」と称する学者もあるほどに、重要な箇所ということが出来ます。

 冒頭に「ああ!」(ホーイ)という、嘆きや裁きの際に用いられる間投詞がありますが、新共同訳は訳出していません。ここでは、強く注意を促す「さあ」といった意味で用いられています。昨年出された『聖書協会共同訳』には、そのように表記されています。

 主なる神は先ず、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)と招かれます。それは、水や穀物、ぶどう酒も乳も、すべて主が無償でお与えくださる一方的な恵みだということです。

 続いて、「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)と言います。異教の偶像への献金や、そのための労働を揶揄する言葉、また、エルサレムへの帰還を促す預言者の言葉に耳を貸さず、バビロンに留まろうとする者たちに、命の糧ならぬ地上の富、霊的な欠乏を満たすことの出来ない金のために労するのかと質す言葉です。

 さらに「耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)と語ります。捕囚生活でも、水とパンは提供されたでしょう。しかし、イスラエルの民が生きるためには、彼らを活き活きと生かす心の栄養が必要だったのです。主は、御自分に聞き従うすべての者に、生きるために必要なすべてのものを豊かにお与えくださるというわけです。

 主イエスが荒れ野でサタンから、石をパンに変えて空腹を満たしたらどうかと試みられたとき(マタイ4章3節)、「『人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(同4節)と、申命記8章3節を引用しながら誘惑を退けられました。

 これは、霊的なものは神から、しかし空腹を満たすためにはパンが必要ということではありません。ここで主イエスは、御自分の体の欲求のために神の力を用いるようなことはなさいませんでした。イザヤと同様、必要なものはすべて、神が語られる御言葉によって与えられると言われたのです。

 それから、冒頭の預言者の言葉(6節)で「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」と命じ、すぐに「呼び求めよ、近くいますうちに」とたたみかけます。捕囚から解放され、改めて契約を結ぼうと言われる今、主が近くにおられ、見いだし得るときなのです。

 かつてイスラエルは、「主に信頼せよ」(30章15節参照)という預言者の言葉に耳を傾けず、異教の偶像に頼り、エジプトやバビロンを当てにして難局を乗り切ろうとした結果、主なる神の保護を受けることが出来なくなり、亡国の憂き目を見ることになりました。今改めて、「わたしのもとに来なさい」と招かれる主の言葉を聞き、悔い改めて主のもとに帰るために、機会を逃してはならないのです。

 8節に「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる」と言われています。主なる神の思いと人の思い、主の道と人の道の隔絶が詠われています。それは特に、苦難の主の僕の歌に示されるとおり、人の想像をはるかに超えた方法で主は人をお救いになるということです。

 だから、人と主の思いが異なり、道が異なるのは当然なので、私たちは私たちの道を行くという話ではなくて、主なる神と私たちの思いが異なり、主の道と私たちの道が異なっているので、主の御心のうちに留まり、主と共に主の道を歩むために、主を尋ね求め、主に立ち帰れと言われているのです。

 牧師になる前、「わたしの考えとお前の考えは違う」という言葉を、直接耳で聞くように聞いたことがあります。ひらめいた言葉といってもよいのかもしれません。そのとき、それは当たり前で、自分と主なる神の考えが違うのは当然だと思いました。

 高校受験のときから牧師になることを目指していましたが、大学を卒業するころ、召しを感じられず、違う職業を選ばざるを得ませんでした。そのため、何かにつけて後ろめたさを覚えていました。そうして、いつしか聖書を読む楽しさを忘れ、祈る喜びも失っていたのです。だから、その言葉を耳にして、もう主の道を歩めないということかとさえ思いました。

 けれども、やがてその言葉は「お前は自分の夢を壊し、自分の計画とは違う道を歩んでいると思って落ち込んでいるかもしれないが、その道を歩ませることこそが主の御心、主のご計画なのだ」という意味ではないかと思えるようになったのです。

 主は、もう二度と主の道を歩ませないということで、そのように言われたのではありません。私たちがどこにいても、何をしていても、主は傍におられ、尋ねれば見出し、呼び求めれば答えてくださるのです。主の御言葉に信頼し、その道を歩み続けたとき、主は私に、主の御言葉の教師となるようにという使命を与え、その道に導いてくださいました。

 以来、主は分かれ道に立つ度に御言葉を示し、進むべき道を教えてくださいます。道を外れそうになっても、その都度、正しい道に呼び戻してくださいました。今あるは、実に神の恵みです(第一コリント書15章10節)。それ以外の何ものでもありません。

 これからも主を畏れ、日々その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みたいと願っています。

 主よ、今日もあなたの憐れみに支えられ、主の道を歩ませて頂いています。あなたに聞くこと梨に、その道を歩むことは出来ません。あなたの御言葉こそ、私たちの足の灯火、道を照らす命の光です。絶えず、御言葉の悟りを与えてください。真理に従って歩むことが出来ますように。 アーメン