「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら背負った。」 イザヤ書53章11節

 52章13節~53章12節が、「主の僕の歌」の第4歌、最終の歌です。

 この歌は、「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」(52章13節)という言葉で始まります。「栄える」(サーカル)は、「賢く振る舞う」という意味の言葉で、「成功する」とも訳されます(ヨシュア記1章7,8節参照)。

 ところが、続く同14節には、「彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない」と記されており、その栄光を失ってしまったかのようです。2節でも、同様に語られています。

 52章15節に「彼は多くの民を驚かせる」とあります。それは、主の僕が神の栄光を受けて高く上げられたからであり(同13節)、しかしながら、見る影もない姿を見たからという(同14節)、二重の理由のゆえでしょう。これは、イスラエルがバビロンによって壊滅させられた際の惨状と、捕囚から解放されて自由にされたときの高揚感が、共に人々の驚きの対象になったのでしょう。

 「王たちも口を閉ざす」(同15節)は尊敬のしるしという表現で、「誰も物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったから」(同15節)と合わせて、捕囚のイスラエルの状況が突如として変化し、解放されて帰国することが出来たのを目の当たりにした驚きが示されています。

 2節に「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った」とあります。神の祝福を受けて成功する人が、十分に水を与えられて育つ植物にたとえられるように、ここでは、水分が十分得られずに干からびてしまう植物のように育つというのは、神の祝福が取り去られたということを語っているようです。

 そのために、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ」(3節)ます。人々はその姿を見て、「神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ」(4節)と考えるのです。しかし、主の僕は、神に背く者たちの病を担い、その咎による痛みを負って、苦しんでいたのです。

 7節には、「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれていく小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」と記されて、ここに、この僕が自分の置かれた境遇を甘受し、黙々と歩んでいる様子が描かれています。

 「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた」(9節)のは、「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は臨まれ、彼は自らを償いの献げ物とした」(10節)からであると説明されます。つまり、主の僕の苦しみは、主なる神の御心によることであり、僕の死は、多くの人々の罪の償いの献げ物となるためだったというのです。

 最初に、「わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」(52章12節)と語られていたのは、神の御心に従って人々から蔑まれ、見捨てられるほどに低くされた僕が、私たちの身代わりとして贖いの業を成し遂げたゆえに、神が僕に栄光を与え、高く上げられるということだったわけです。

 この「僕」について、学者たちの間に様々な議論がありますが、キリスト教会は伝統的に、この僕こそ、主イエス・キリストであると考えて来ました。主イエスは神の独り子であられますが、人となってこの地上に来られ、私たち人類の罪の身代わりに、十字架にかかって死なれました。

 当時のユダヤの指導者たちは、ゲッセマネで主イエスを捕らえた後(マルコ14章43節以下)、大祭司カイアファの屋敷に連れて行き、そこで主イエスが神を冒涜する者であると断じ、死罪を言い渡しました(同53節以下、64節)。その後、ローマ総督ピラトは、「十字架につけろ」と叫ぶ群集の声に負けて、主イエスを十字架につけることに同意しました(同15章14,15節)。

 主イエスは、二人の強盗と共に朝の9時に十字架につけられ(同25,27節)、午後3時過ぎに「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と大声で叫んで、息を引き取られました(同34,37節)。そして、アリマタヤ出身のヨセフというサンヒドリンの議員の墓に葬られました(同43,46節)。

 主イエスの弟子たちは、主イエスを見捨てて逃げてしまいました(同14章50節)。主イエスが十字架で死なれたとき、それが私たちの背きの罪のため、身代わりとなってその呪いを身に受けてくださるためだったと理解出来た者は、誰もいなかったのです。

 それはまさに、8節で「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」と言われている通りです。

 しかし、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(5節)のです。そして、神は、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」であられたキリストを「高く上げ、あらゆる名に勝る名をお与えに」なったのです(フィリピ書2章8,9節)。

 今日、地の果ての日本に福音が伝えられ、主イエスを信じる信仰に与る者が起こされているのは、「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」(11節)とあるように、甦られた主がそれを御覧になりたいと望まれたからであり、そして、その結果を喜んでいてくださるからです。

 主イエスをお喜ばせするため、福音を宣教する働きにさらに励んで参りましょう。

 主よ、私たちが救いに与り、約束された聖霊に満たされるため、御子キリストが罪の呪いを身代わりに受けてくださいました。この驚くべき恵みに心から感謝しています。この恵みを無駄にせず、今年度も伝道する教会、主の恵みを証しする信徒として用いてください。御名が崇められますように。 アーメン