「しかし、急いで出ることはない、逃げ去ることもない。あなたたちの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから。」 イザヤ書52章12節

 52章13節から、4番目の「主の僕の歌」が始まります。それまでの部分は、「エルサレムの救いへの呼びかけ」(1~6節)、「平和の到来」(7~10節)、「出発への呼びかけ」(11,12節)と区分することが出来るでしょう。 

 6節に「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう」と言われています。「それゆえ」は、3節の「主はこう言われる。『ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される』と」という言葉を受けています。

 イスラエルはかつてエジプトの奴隷でしたが、モーセに率いられてエジプトを脱出し、エルサレムに都を置くイスラエルの国を築きました。ところが、ソロモンの死後、イスラエルは南北に分裂し、紀元前721年に北イスラエルがアッシリア(列王記下17章)、南ユダも紀元前587年にバビロンによって滅ぼされ(同25章)、それぞれ捕囚とされました。

 それは、彼らが主なる神ではなく、人や馬の力に依り頼み(30章15,16節など参照)、また、異教の神々を祀って礼拝し、主の怒りを買ったためでした(列王記下24章19,20節、歴代誌下36章15節以下)。

 それが、バビロンに対して賠償金を支払うのではなく、主によって買戻される、即ち、主なる神によってバビロンから救い出して頂くという恵みに与ろうとしているのです。だから「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ」(1節)と呼びかけ、「立ち上がって塵を払え」(2節)と命じ、「わたしの民はわたしの名を知るであろう」(6節)と言われるのです。

 主はイスラエルの民を繰り返し「わたしの民」(4,5,6節)と呼んでおられます。それは、主とイスラエルの民との間に、新しい契約が結ばれていることを表しています(エレミヤ書31章33節参照)。しかしながら、「わたしの民はわたしの名を知るであろう」ということは、これまで、「わたしの民」が「わたしの名」を知らなかったと言っていることになります。

 つまり、主なる神が「わたしの民」と呼ぶイスラエル、神の選びの民とされていることを誇りとしていたイスラエルの民は、それにも拘らず、主を軽んじ、主に聴き従おうとはしなかったわけです。だから、主の怒りを買い、アッシリアやバビロンに「ただ同然で売られ」ることになったのです。

 しかしながら、主なる神は、イスラエルの民を苦しむままに放置しておくことが出来ませんでした。おのが民が異邦の民に苦しめられることは、そこで主の御名が汚され、侮られることでもあったからです(5節)。それゆえ、主が御腕を伸ばして、ご自分の民をその苦しみから助け出されるのです。

 主はご自分の民に呼びかけて、「立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ、汚れたものに触れるな。その中から出て、身を清めよ。主の祭具を担う者よ」(11節)と言われます。出エジプトならぬ、出バビロンです。

 出エジプトの際には、イスラエルの民はせきたてられて、急いでエジプトを出ました(出エジプト記12章33節)。そして、主がイスラエルの民に先立って進まれ、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって道を照らされました(出エジプト記13章21,22節)。

 葦の海を前にしたイスラエルの民の背後からエジプト軍が追い迫ってきたとき、雲の柱が民の前から後ろに回り、イスラエルとエジプトの間に入りました(同14章20節)。それで、エジプト軍はイスラエルに近づくことが出来ず、その間に葦の海が二つに割れて乾いた地が出来、民はそこを通って難なく向こう岸に渡ることが出来ました(同22節)。

 イスラエルに続いてエジプト軍が後を追って海に入ったとき(同23節)、主なる神がエジプト軍をかき乱され(同24節)、戦車の車輪を外して進み難くされて(同25節)、海の中に彼らの足止めをされた後、海の水が元に戻るようにされたので(同26,27節)、エジプト軍は全員、海の藻屑となりました(同28節)。

 一方、出バビロンにおいては、冒頭の言葉(12節)の通り、民は「急いで出る必要はない、逃げ去ることもない」と言われます。つまり、バビロンからの脱出は、逃亡などではなく、その戦いに勝利した凱旋の行軍のようなものということなのです。

 しかも、神ご自身がイスラエルの先を進み、かつ、しんがりを守られます。それにより、荒れ野をさ迷って40年を過ごすということはありませんし(ヨシュア記5章6節)、あるいはまた、疲れ切ったしんがりの落伍者にアマレクが攻めかかるというようなこともないでしょう(申命記25章18節参照)。

 パウロが、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(ローマ書8章31節)と問い、「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(同37節)と結論しています。

 私たちを憐れみ、先を進み、しんがりを守られる主に信頼し、その導きに従って歩ませて頂きましょう。

 主よ、あなたの限りない愛と憐れみのゆえに感謝致します。あなたは、罪の奴隷であった私を贖い出し、凱旋の列に加えてく下さいました。御言葉と御霊の導きに与り、至る所にキリストのよい香りを届けることが出来ますように。主の慈しみに留まり、力強い主の御手の下に絶えず身を低くすることが出来ますように。 アーメン