「わたしに聞け、正しさを求める人、主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ。」 イザヤ書51章1節

 冒頭の言葉(1節)で「正しさを求める人」とは、正義を行う人というより、神の義、神の正しさを求める人という意味です。「義」(ツェデク)という言葉が1,5,7節で「正しさ、正義」として、また、女性形の「ツェダカー」が6,8節に「恵みの業」と訳されて、用いられています。この段落は、「神の義」が重要なテーマであることが分かります。

 神の義、神の正しさを求めるとは、神が神として正しくふるまってくださること、また、人が人として正しく神を崇めることを求めることです。その背景に、神はどこにおられるのか、神は本当におられるのかという、捕囚民の置かれた苦しく辛い立場、状況があると思われます。そこで、自分たちをその苦難から贖い出してくださるまことの神を追い求める人がいるというわけです。

  ということは、「正しさを求める人」と、続く「主を尋ね求める人」とは、同義ということになります。神の義は、神を信じる信仰により、恵みとして与えられます(ローマ書3章21節以下)。神の義が与えられるということは、罪から救われるということでもあります(エフェソ書2章4節以下)。

 主を求め、神を信じる信仰に生きようとする人々に、「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」(1節)と言われ、2節で「あなたたちの父アブラハム、あなたたちを産んだ母サラに目を注げ」と告げられていますので、「切り出された元の岩、掘り出された岩穴」とは、父祖アブラハムとサラのことでしょう。そして、切り出された岩はイスラエルの民ということです。

 「サラ」の名は、旧約聖書中、創世記以外ではここにしか出て来ません。「アブラハムとサラに目を注げ」とは、どういうことでしょうか。そこで主は、「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」(2節後半)と言われます。「ひとりであった」とは、アブラハムとサラの間には子がなかったということです。

 アブラハムは75歳のとき、「父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」という神の声を聞き、妻のサラと共にハランを出ました(創世記12章1節以下、5節)。そしてアブラハム100歳、サラ90歳のときに、約束の子イサクが生まれます(同21章1節以下)。

 そして、イサクにヤコブが生まれ(同25章21節以下)、ヤコブに12人の男児が生まれました(同35章22~26節)。これが、イスラエル12部族の先祖ということになります。

 ヤコブ一族が飢饉を逃れてエジプトに下ったときは70人でしたが(同46章27節)、430年後、イスラエル全部族は数えられた成人男子だけで60万を数えており(出エジプト記12章37節以下、40節)、女子どもを数えると、総数は200万にも達していたと考えられます。

 もし、アブラハムが主の声に聴き従わず、ハランの地に留まり続けていたとすれば、年老いたアブラハムと不妊のサラに、子が生まれて来ることは、なかったでしょう。彼らに子が与えられ、一民族をなすことが出来たのは、まさに神の約束の言葉に従ったから、神の祝福をいただいたからです。

 アブラハムの生まれ故郷はカルデヤのウル、即ちバビロンです。捕囚の民に「アブラハムとサラに目を留めよ」と言われるのは、神がもう一度、アブラハムの子孫イスラエルの民をバビロンから呼び出し、約束の地カナンで彼らを祝福の基としようということです。

 3節の「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め」とは、子のなかったアブラハム、サラを慰めてイサク(笑い)をお与えになったように、バビロンによって廃墟にされたエルサレムを慰め、そこを住む者の多い都とされるのです。

 さらに、「荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(3節)と語られています。「エデンの園」と「主の園」は同一のことで、荒れ果てて砂漠のようになった国土が、やがて「エデンの園」(楽しみの園:創世記2章8節)のように回復され、そこには「喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」用になるというのです。

 それゆえに、希望をもって主を尋ね求めなければなりません。とはいえ、これは勿論、人が努力してなし得ることではありません。神の恵みに信頼し、すべてを神に委ねることです。だから、「わたしに聞け、正しさを求める人、主を尋ね求める人よ」(1節)と最初に告げられていたのです。

 主イエスが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな、加えて与えられる」(マタイ福音書6章33節)と言われたのはそのことでしょう。続けて、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(同34節)と言われています。

 「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる」(詩編37編3~6節)。

 「主は恵み深く、その慈しみは永久に絶えることがない」。主よ、その深い恵みと慈しみのゆえに、心から感謝致します。絶えず主の恵みのもとに留まり、謙って御言葉に耳を傾け、聖霊の導きに従って歩ませてください。御名が崇められ、御心が行われますように。 アーメン