「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」 イザヤ書50章4節

 4~9節は、「主の僕の歌」の第3歌です。

 冒頭の言葉(4節)で、「主なる神」と訳されているのは、「アドナイ・ヤハウェ」という言葉です。「ヤハウェ」という神の名について、ユダヤの人々は、「あなたの神、主(ヤハウェ)の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という十戒に規定に基づき、正確に発音せず、通常は「アドナイ」と読みますので、そのとおり発音すれば、「アドナイ・アドナイ」となります。

 そこで、岩波訳のように直訳的に「主なるヤハウェ」と訳すか、上記の理由に基づいて「ヤハウェ」と表記するのは良くないとするならば、同じ音が重なりを表すように「主なる主」、「主である主」と訳すほうがよいでしょう。「主(ヤハウェ)」が、そうお呼びする名前というだけでなく、まさしく私の主人であるということを強調して、「主である主」という表現になったと考えることも出来ます。

 また、「弟子」(リムーディーム)という言葉が2度出て来ますが、これは「教えられる者」という意味の言葉で、複数形です。同じ言葉が8章16節にあり、そこでは「弟子たち」と訳されていました。また、54章13節では「教えを受け」と動詞的に訳されています。口語訳、岩波訳のように「教えを受けた者」と訳してもよいでしょう。

 一方、「舌」(リショーン)は単数です。舌が単数であるのは、弟子たちが教師である主の教えを語っているということでしょう。そして、特にこの箇所では、「わたし」イザヤが教師の主なる神に学んだ生徒として、主なる神に教えられた言葉を語るということではないでしょうか。

 「弟子としての舌」が与えられたのは、「疲れた人を励ます」ためです。「疲れた人を励ます」ということでは、40章29節に「(主は)疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与える」と語られ、この主の働きを預言者が担うわけです。

 この時代、「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れ」(40章30節)るほど弱り、疲れを覚え、無気力になっていました。捕囚となっていた民は、自分たちは主に離縁された、バビロンに売り渡されたと言い(1節参照)、自分たちを離縁し、あるいはまた外国に売り渡した者が、自分たちを買い戻すことは出来ないと主張していたようです(申命記24章1節以下参照)。

 また、自分たちをバビロンの手から解放し、救い出してエルサレムに連れ戻すことは出来ないだろうし、バビロンの50年の捕囚生活で営々と築いてきたものを捨てて、危険の多い荒れ野を通って長距離を旅し、荒廃している祖国を再建する辛苦をなめるのは、ごめんだと考えていたのかも知れません(2節参照)。 

 「呼び覚ます」(ヤーイール)は、「揺り動かす、かき立てる」という強い意味もあり、42章13節では、「奮い起こす」と訳されていました。疲れた者を励ますためには、ありきたりの、通り一遍の言葉ではなく、主によって揺り動かされ、振るい立てられた、力ある神の言葉でなければならないということでしょう。

 そして主は、預言者たる「わたし」自身が先ずその言葉を聞くべく、「朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし」てくださいます。主に聴くことなくして、主の言葉を語ることは出来ません。主が語れと言われることを告げるのでなければ、それは、主の言葉ではないからです。

 預言者サムエルがまだ幼いとき、主から「サムエルよ」と呼ばれ、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答えて、主の言葉を聞きました(サムエル記上3章1節以下、10節)。これが、神の人サムエルの耳が呼び覚まされた物語です。その後サムエルは、主の預言者として人々の信望を集め、「主は御言葉をもって、シロでサムエルにご自身を示され」(同20,21節)続けました。

 一方、祭司エリには、主の言葉が告げられませんでした。同1節には、「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」と記されています。これは、「弟子として聴き従う」姿勢を持たないとき、つまり、主なる神の御前に謙り、御心を行う信仰に立たなければ、その耳が開かれないということを、私たちに教えているのです。

 神の御言葉を語る務めは、容易いものではありません。6節に「打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」とあります。

 預言者として告げる言葉が直ちに実現しないことで受ける侮辱、預言者に反抗する人々から受ける暴力などをそのように表現し、しかもそれらを甘受したと言います。それが、主から委ねられたミッション、使命だったからです。

 これはまた、主イエスが十字架につけられる際に味わわれたことでもあります(マルコ福音書14章65節、15章15,16~20,29~32節など)。だから、朝毎に言葉を呼び覚まし、耳を呼び覚まされる主の御前に出、疲れた人を励ます主の御言葉を聞かなければならないのです。主イエスが朝早く、ときには夜を徹して祈られたのは、そのためだったわけです。

 日毎に御言葉と御霊の導きにより、主の慰めと励ましを頂きながら、主の使命に励んで参りましょう。

 主よ、私たちの耳を呼び覚まし、疲れた者を励まし立たせる御言葉を聞かせてください。闇の中を歩くようなときも、主を畏れ、御名に信頼し、御力に支えられて立ち、前進させていただくことが出来ますように。あなたの御言葉こそ、私たちの足の灯火、道の光だからです。 アーメン