「わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主。イスラエルの聖なる神。」 イザヤ書47章4節

 46章に続き、47章にもバビロンに対する裁きの言葉が記されています。46章には、バビロンの神々が力を失うことが告げられていましたが、47章では、バビロニア帝国の滅亡、バビロンの都の陥落が歌われています。注解書によれば、文学的技巧にすぐれて、バビロンの奢りと神の裁きが哀歌調で歌われているということで、その歌によってバビロンを嘲笑しているかたちです。

 1節の「おとめである、娘バビロンよ」という呼びかけは、まだ主人に仕えたことがないということから、バビロンはいまだ征服されたことがない、威勢を誇っているという表現でしょう。「諸国の女王」(5節)と呼ばれ、自ら「永遠の女王」(7節)と称しているバビロンが、「身を低くして塵の中に座れ」、「王座を離れ、地に座れ」と命令されて、屈辱的な扱いを受けることになると示されます。

 2節の「石臼を取って粉をひけ」というのは、女奴隷として仕事をせよということです。「ベールを脱ぎ」以下「すねをあらわにして川を渡れ」は、危急の事態に陥り、逃走する情景を示すものでしょう。けれども、裸にされ、屈辱的な扱いを受けるようになります。ここに「娘」、「女」といわれるのは、「バビロン」が女性形の名詞なので、擬人化した表現をしているわけです。

 5節にも「娘カルデヤよ」という呼びかけがあります。カルデヤとは、バビロンのことです。イスラエルの父祖アブラハムの故郷は、カルデヤのウルですから(創世記11章31節)、もとをたどれば、カルデヤ人とユダヤ人は同族ということにるわけです。しかし、「諸国の女王と呼ばれることは二度とない」という言葉で、帝国としての支配の終わりが告げられています。

 そのような裁きが告げられる理由が、6節に「わたしは自分の民に対して怒り、わたしの嗣業の民を汚し、お前の手に渡した。お前は彼らに憐れみをかけず、老人にも軛を負わせ、甚だしく重くした」と語られています。つまり、神がイスラエルを罰する器としてバビロンを選び、その手に処罰を委ねたのだけれども、その指示以上に冷酷に取り扱ったというのです。

 さらに7節で「わたしは永遠に女王だ、とお前は言い、何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった」と告げられます。つまり、神を畏れないこのような驕りが、彼らの裁きの理由だというわけです。8節では「快楽に浸り、安んじて座る女よ」と呼ばれて、おのが危機を悟らず、安逸を貪っていることを断じます。

 また、「わたしはやもめになることなく、子を失うこともない、と心に言う者よ」と呼ばれます。やもめになるとは、寄る辺を失うことであり、子を失うとは将来の希望を失うということでしょう。バビロンの人々はそうならない自信を持っていたわけです。しかるに神は、「その二つのことが、一日の内に、瞬く間にお前に起こ」(9節)ると言われます。

 また、この自信は、「呪文」や「まじない」によってもたらされていたもののようです(9,10節)。特に天文学に関する研究は、他に類を見ないほどの進歩を遂げていたと言われます。その「知恵と知識」がバビロンを「誤らせ」てしまったのでしょう。

 12節で「呪いと呪文の数々をもって立ち向かえ。若いときから労して身につけたものが、あるいは役に立ち、それを追い払うことができるかもしれない」と言われるのは、なんと皮肉たっぷりの意地悪な勧告でしょうか。

 そして14節に「見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし、炎の力から自分の命を救い出しえない」と記されています。呪いに使う火によって自ら焼き尽くされるということで、守るはずのものによって滅ぼされてしまうと言われるのです。

 ただし、ここに預言するイザヤの言葉を聴いているのは、イスラエルの民です。一方では、自分たちを奴隷として苦しめたバビロンに対する裁きの言葉に、溜飲の下がる思いがしたかもしれません。しかしながら、6節にあるとおり、神がイスラエルをバビロンの手に渡されたのは、彼らが神の怒りを買うような罪の生活を繰り返していたからです。

 神に従わず、自らの知恵や知識に依り頼み、「わたしだけ、わたしのほかにだれもいない」(8節)という選民意識をもって驕り高ぶるなら、またもや、悲しく辛いところを通らなければならなくなり、まさに「お前を救う者はひとりもいない」(15節)ということになってしまうのです。

 冒頭の言葉(4節)でイザヤは、主なる神を「わたしたちの贖い主、その御名は万軍の主、イスラエルの聖なる者」と呼びました。イスラエルは、贖い主の救いを必要としています。万軍の主が味方してくださるとき、どんな敵にあたることも出来ます。このお方こそ、イスラエルの聖なる方、唯一の神です。

 イスラエルの民を捕囚の苦しみから贖い出してくださった万軍の主は、今も尚、「イスラエルの聖なる者」と呼ばれることをよしとしておられます。この主なる神に信頼し、主の御言葉の前に身を低くしましょう。その導きに従って歩みましょう。

 主よ、私たちはあなたを必要としています。私たちは罪人です。私たちの罪を赦してください。十字架の主を仰ぎます。その血潮によって清めてください。心の王座に主をお迎えします。私たちをあなたの御心のまま、あなたの望まれるような者に造り替えてください。 アーメン