「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」 イザヤ書40章8節

 40章からは、第二イザヤと呼ばれています(さらに、56章以下を第三イザヤと呼んで区別することもあります)。39章までは、主に紀元前700年頃、ヒゼキヤの代に預言者イザヤによって語られた、イスラエルの裁きが預言されているのに対し、第二イザヤには、バビロンにいる捕囚の民に希望と慰めを与える預言が記されます。

 第二イザヤの最初の章(40章)、最初の段落(1~11節)は、「帰還の約束」という小見出しが示す通り、捕囚の民に故国への帰還を約束する内容になっています。そしてこの段落は、第二イザヤ全体の序章でもあります。

 1節に「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」と記されています。原文には「ナーハム」(「慰める、憐れむ」の意)という動詞のピエル命令形が複数形で二度繰り返し用いられていて、意味を強めています。「ナーハム」という動詞がイザヤ書に17回用いられる中で、40章以降に14回用いられていて、第二イザヤの預言の基調を示すものとなっています。

 ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」は、三部構成の第一部「メシア到来の預言と誕生」において、最初にテノールが「Comfort ye comfort ye(慰めよ、慰めよ)」と歌い出します。この段落が、メシア=救い主の到来を預言したものだと考えられているわけです。

 ここで神が「わたしの民」と呼ぶのは、2節に「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ」と言われているので、捕囚とされているイスラエルの民のことです。

 イスラエルの民に慰めを与えよというのは、「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」から、「罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた」(2節)からです。つまり、50年に及ぶバビロン捕囚の苦しみは、イスラエルの背信の罪が神に裁かれたゆえであり、捕囚の苦役をもって賠償させられていたというわけです。

 ここで神は、誰に向かってイスラエルの民を「慰めよ」と命じておられるのでしょうか。それは、イザヤではありません。というのは、「あなたたちの神は言われる」(1節)と、複数の人々に呼び掛けているからです。これはおそらく、天上における御前会議で主なる神が御使いたちに向かって語っておられるのを、イザヤが聞いたということでしょう。

 しかしながら、それはただ単に、立ち聞きをしたということではありません。御前会議を傍聴していて、「呼びかけよ」(5節)という神の声を聞いた預言者をして、「なんと呼びかけたらよいのか」(6節)と答えるよう、神が仕向けられたのです。ということは、6章と同様、この箇所は、神が第二イザヤを預言者として召し出された物語と言ってよいでしょう。

 預言者に与えられたのは、冒頭の言葉を含む6~8節の「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という言葉でした。

 これは、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。奢れる者は久しからず、唯、春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には亡びぬ、偏に風の前の塵に同じ」という平家物語の一節を思わせるような言葉です。

 けれども、ここにいう草や花とは、人の儚さというよりも、国や都を表す表現でしょう。即ち、いかに富み栄えている国も、いかに堅固な町も、それで永遠に繁栄を誇ることは出来ないということです。

 イスラエルは、神の民として選ばれましたが、神に背き続けて滅びを刈り取ることになりました。エルサレムは神の都と呼ばれましたが、バビロンの前に陥落し(列王記下25章1節以下)、壮麗な主の神殿は王宮や町のすべての家屋とともに焼かれ(同9節)、城壁も破壊されてしまいました(同10節)。町や国の力は、繁栄の保証とはならないのです。

  それはまた、イスラエルを滅ぼしたバビロン帝国がいかに武力や経済力に優れていても、それで永久に立つことは出来ないと語られていることになります。確かに、やがてバビロン帝国はペルシア帝国によって、そして、ペルシア帝国はアレキサンダー率いるマケドニア帝国によって、滅ぼされることになるのです。

 預言者はしかし、冒頭の「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(8節)という言葉を与えられました。神の言葉こそ、私たちが拠って立つべき永遠の基礎であるというわけです。ということは、イスラエルが滅ぼされ、捕囚の苦しみを味わうことになったのは、神の御言葉という基礎の上に、堅く立たなかったからということになります。

 そして、確かにイスラエルの民は、亡国の憂き目に遭い、半世紀に及ぶ捕囚の苦しみを味わわされましたが、今再び、「慰め」を呼びかける神の声を聞いています。まさに、「神の言葉はとこしえに立つ」というわけです。

 この言葉が、第一ペトロ1章24,25節に引用されています。第一ペトロ書が書かれた当時、クリスチャンたちは、ローマ帝国において厳しい迫害を味わっていました。「身にふりかかる火のような試練」(同4章12節)、「敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(同5章8節)という言葉が、それを示しています。

 しかし、いかに繁栄を誇り、強力な軍隊をもって地中海世界を支配し、全ての道はローマに通ずと言わしめたローマ帝国も、決して永遠のものではないこと、だから、主なる神に信頼し、永遠に確かな神の御言葉にしっかり立とう、御言葉によって生きようと、冒頭の言葉を引用しながら、ペトロが励ましの言葉を告げているのです。

 私たちも、主イエスの贖いの死によって罪赦され、神の子とされました。その恵みに感謝し、いよいよ篤く主を信じ、日々み言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みましょう。聖霊に満たされ、力を受けて、救いの喜びを告げ知らせる主の証人にならせていただきましょう。

 主よ、まことの神を信じ、その御言葉に耳を傾けることの出来る幸いを心から感謝致します。どのようなときにも、御言葉に戻って主の御心を求め、御言葉に土台して、信仰に堅く立つことが出来ますように。主が私たちを慰めてくださったその慰めをもって、今悲しみの中にある方々を慰め、励ましてくださいますように。 アーメン