「主がアッシリアの王に向かって告げられた言葉はこうである。おとめである、娘シオンはお前を辱め、お前を嘲る。娘エルサレムはお前に背を向け、頭を振る。」 イザヤ書37章22節

 37章は、列王記下19章とほぼ同一の記事が記されています。

 アッシリアの司令官ラブ・シャケの言葉を伝え聞いたヒゼキヤ王は、主の神殿に行きます(1節)。「粗布を身にまとって」とは、悔い改めのしるしです。アッシリアの王の代替わりを機に朝貢を辞め、エジプトを頼りに反旗を翻した南ユダの王ヒゼキヤは、かえって絶体絶命の危機を招いてしまいました。

 国内の砦の町々が占領され、20万ともいう人々が捕虜としてアッシリアに引いて行かれたそうです。その勢いをもって大軍がエルサレムに迫って来ました。一度はアッシリアの王に対しておのが非を認め、貢ぎ物を差し出して和睦しようとしたヒゼキヤですが(列王記下18章14,15節)、エルサレムが包囲され、ラブ・シャケの嘲りの言葉(36章16節以下)を聞いて、腹を決めたのでしょう。

 悔い改めて主の御前に進んだヒゼキヤは、高官たちにも粗布をまとわせてイザヤの下に遣わし、執り成しを願って(2節以下)「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない」(3節)と言います。無事に出産を終えることが出来ない母と胎児は、医師の助けがなければ、いずれも死を待つほかないという非常に危険な状態にあるでしょう。

 助けを頼もうとしても、周りに頼りになるものはなく、また自ら出て戦うには力がない、絶体絶命のピンチです。ここにヒゼキヤは、まさに苦しいときの神頼みではありますが、主なる神の前にひれ伏し、助けを求めたのです。

 その中で、アッシリア王センナケリブがラブ・シャケに告げさせたことを、「生ける神をののしるため」(4,17節)と言っています。センナケリブがイスラエルの神を「生ける神」(エロヒーム・ハイ)などと言うはずがありません。これはヒゼキヤが、主は「生ける神」、木や石で造られた命のない偶像などではない、他国の神々とは違うという思いを明らかにした言葉遣いです。

 使徒パウロが、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(第二コリント4章8,9節)と言っています。それは勿論、パウロ自身の強さではありません。

 「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(同7節)というとおりです。即ち、八方ふさがりで途方に暮れるという絶望的な状況の中で、共におられる主を仰ぐことが許されており、その御力に依り頼むことが出来るのです。

 「あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される」(6,7節)という神の言葉を聞いて、ヒゼキヤは心励まされました。

 それで、「お前が依り頼んでいる神にだまされ、エルサレムはアッシリアの王の手に渡されることはない、と思ってはならない」(10節)と神を嘲るラブ・シャケの手紙を受け取ると、それを主の前に広げて、「わたしたちの神、主よ、どうか今、わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主であることを知るに至らせてください」と祈ります(20節)。

 37章は列王記下19章とほぼ同一と冒頭に記しましたが、僅かながら違っている箇所の一つが16節の「万軍の主」(ヤハウェ・ツェバオート)という言葉です。列王記下19章15節ではただ「主」と記されています(岩波訳は何故か、「万軍の」を訳出していません)。これも、上述の「生ける神」と同様、万軍の主は、ラブ・シャケが語った諸国の神々とは違うということを表明した用語でしょう。 

 ヒゼキヤの祈りを受けて、イザヤが告げたのが、冒頭の言葉(22節)です。アッシリアがいかに強大であり、自分の知恵、力を誇っていたとしても、それは所詮、人の知恵、力に過ぎません。主なる神を嘲ったアッシリアは、「おとめ」と言われるエルサレムの町によって嘲られ、辱められます。「頭を振る」は、相手を侮辱する行為です(ヨブ記16章4節、詩編22編8節など)。

 神はかつてアブラハムに、「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」(創世記12章3節)と宣言しておられました。主なる神を嘲り、イスラエルを侮辱したアッシリアの王センナケリブは、自分の身にそれを受けなければなりません。

 彼は、18万5千という大軍でエルサレムを囲んでいましたが、矢を射ることも、土塁を築くことも、ましてエルサレムに入場することもなく(33節)、一夜のうちに主の御使いによって撃たれ、皆死体となりました(36節)。センナケリブひとりニネベに帰り、ニスロクの神殿で礼拝をささげていたとき、息子らに背かれて暗殺されてしまいます(37,38節)。

 「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ書8章31,32節)。

 絶えず主を仰ぎ、その御言葉に聴き従って力を頂きましょう。主の力強い御手の下で、自分を低くしましょう。神がわたしたちのことを心にかけていてくださるからです。

 主よ、信仰に固く立ち、思い上がって神に背く者となることがありませんように。神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えくださいます。絶えず私たちのことを心にかけていてくださる主に信頼し、一切を主に委ねて、主と共に歩ませてください。力が世々限りなく神にありますように。 アーメン