「しかし彼らは、答えてはならないと王に戒められていたので、押し黙ってひと言も答えなかった。」 イザヤ書36章21節

 36~39章は、列王記下18章13節以下20章19節までとほぼ同じです。36章の記事での違いは、列王記にはヒゼキヤがアッシリアに降伏する意を伝え、求められた金品を贈ったという文言がありますが(王下18章14~16節)、イザヤ書にはそれが抜けていることです。

 ここはイザヤの預言ではなく、イザヤが登場している記事を取り込み、39章(王下20章12節以下)の記事がバビロン捕囚を暗示していることから、多くの学者たちによって第二イザヤと称される40章以下、捕囚期の預言への橋渡しとして、この箇所に配置されたものと考えられます。

 エジプトを頼みとしてアッシリアに反旗を翻したヒゼキヤ王ですが(30章1,2節、31章1節)、頼みのエジプトがアッシリアに撃破され、ユダの町は次々と占領されていきます(1節)。

 2節の「ラキシュ」は、エルサレムの西南約45kmに位置する、エジプトからユダの地にやって来る重要な隊商路を確保するための町ですが、この時点で既にアッシリアの手に落ちてしまっているようです。というのは、ラキシュからアッシリアの大軍がエルサレムに迫って来るからです。

 アッシリアの王センナケリブは、大軍にラブ・シャケを同行させました。ここで「ラブ・シャケ」というのは固有名詞ではなく、職名のようです。ATD注解書は「軍隊の第二位の司令官を指す」と言います。

 ただ、37章8節の「ラブ・シャケは、王がラキシュをたったということを聞いて引き返し、リブナを攻撃しているアッシリアの王と落ち合った」というのは、彼が軍を離れて行動しているようで、大軍をエルサレムに残し、司令官だけが別の場所を攻撃している王のもとにやって来るとは考えにくいところです。

 岩波訳の脚注には「アッシリア宮廷の役職名。訳せば『献酌長』。王の杯に酒を注ぐ高官である」と記されています。献酌長が軍に同行するというのは、通常考えられないところですが、王がラキシュにいるので(2節)、そこにやって来ていたのでしょう。また、ラブ・シャケが王の使者としてエルサレムに遣わされたのは、ヘブライ語が話せたからのようです(11~13節)。

 ラブ・シャケは、「お前はエジプトというあの折れかけの葦の杖を頼みにしているが、それはだれでも寄りかかる者の手を刺し貫くだけだ」(6節)と言います。これは、イザヤが既に30,31章で語っていて、頼るべき主なる神に従わず、人の力により頼む不信仰のゆえに、アッシリアに攻め込まれているのです。

 また、8節で「もしお前の方でそれだけの乗り手を準備できるなら、こちらから二千頭の馬を与えよう」と言います。兵士が二千人もいないということはないと思いますが、たとい、それだけの騎兵がいても、アッシリアの大軍には全く歯が立たないと考えての、嘲りの言葉です。

 詩編33編16,17節に「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない」とあり、ここで、救いは主なる神がお与えくださるものだと宣言しています。つまり、アッシリアは大軍だから戦いに勝利出来るのではなく、敵を打つ道具として主が用いられるので、連戦連勝ということになるわけです。

 10節で「わたしは今、主と関わりなくこの地を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ」というのは、そのことを示しているわけです。しかし、それが真実ならば、そのとおりに実現したはずではないでしょうか。

 アッシリアは北イスラエルを滅ぼし、南ユダを苦しめました。確かにそれは、主と無関係であるとは思いません。しかしながら、彼らがエルサレムを陥落させることはありませんでした。つまり、南ユダの不信仰を裁くためにアッシリアが用いられましたが、それは、神がアッシリアの味方となられるということではありません。彼らが神の御心に従わず、思い上がるなら、御前から退けられるのです。

 このようなラブ・シャケの嘲りや脅しの言葉に対して、冒頭の言葉(21節)の通り、高官らは何ら答えませんでした。それは、「答えてはならないと王に戒められていた」からです。

 圧倒的な敵の力の前に何も言い返せない苦しみもありますが、何より主に信頼する姿勢がそこに込められています。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(30章15節)と言われているとおりです。焦って、不安と恐れによって、不信仰なことを口にするくらいなら、沈黙しましょう。

 洗礼者ヨハネの父ザカリアは、天使による告知からヨハネが生まれるまでの間、口が利けませんでした(ルカ福音書1章20,22節)。それは、沈黙して、神がなさる御業にひたすら注目させるためであったと考えられます。

 だから、舌のもつれがほどけて話せるようになったとき、ザカリアは神を賛美し始めたと言われます(同64節)。ザカリアは、天使が告げたとおり、神の言葉は時が来れば実現するということを(同20節)、その目で見、その体で味わったわけです。

 ヤコブ書1章19節に「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」とあります。何よりも先ず神の御言葉に耳を傾け、祈り深く御言葉を心に受け止めましょう。自分の思いではなく、神の御心に従って語り、その導きに従って歩むことが出来るように、祈りましょう。

 主よ、言葉数に反して実を結ぶことの少ない私であることを御前に告白し、悔い改めます。自分を誇るため、あるいは弁護するために口数が多くなりますが、そんな時、御前に沈黙させて下ください。ただ主に信頼し、静まって主の導きに従うことが出来ますように。そして、喜びと感謝をもって御名を崇めさせてください。 アーメン