「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ、砂漠よ、喜び、花を咲かせよ、野ばらの花を一面に咲かせよ。」 イザヤ書35章1節

 35章には、イスラエルの「栄光の回復」が語られます。

 冒頭の言葉(1節)のとおり、荒れ野、荒れ地に花が咲き、続く2節で「砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる」と言われるのは、33章9節において「大地は嘆き、衰え、レバノンは辱められて、枯れ、シャロンは荒れ地となり、バシャンとカルメルは裸になる」と語られていた災い、神の裁きが、まさに栄光に変えられたことを示しています。

 弱った者、心挫けた者には、新たな力と勇気が与えられます。敵を打ち、悪に報いる神が来られるのです(3,4節)。そのとき閉ざされていた目や耳が開き、歩けない足で躍り上がり、口の利けなかった人で喜び歌うという奇跡が起こるといいます(5,6節)。後に、これらが終末の到来のしるしと信じられるようになりました(マタイ11章1~6節参照)。

 ただ、6節後半から10節までの箇所との関連で、ここに記されている身体の障害は、神に対するイスラエルの不信仰の表現でしょう。不信仰により、北王国はアッシリア、南王国はバビロンによって滅ぼされ、「荒れ野」、「熱した砂地」とあるとおり、国土も荒れ果ててしまいました。

 けれども、神はイスラエルを憐れみ、もう一度、主を礼拝する神の民として呼び集められます。荒れ果てて砂漠となったカナンの地にいのちの水が湧き出で、川が流れて(6節)、多くの人が行き交い(8節)、再び賑わうところとされるというのです(10節参照)。

 こうして、神の測り知ることの出来ない豊かな憐れみにより、絶望の暗闇が破られ、希望の光が差し込んで来ました。苦しみが楽しみに、悲しみが喜びに変えられたのです(イザヤ書61章3節、エレミヤ書31章13節)。

 苦しみが大きいほど、喜びもまた大きくなります。即ち、荒れ野を通らなければ味わえなかった、大いなる喜びです(エレミヤ書33章9節)。「万事が益となる」(ローマ書8章28節)、マイナスがプラスに変えられるとは、実にこのことです。

 以前、田崎健作牧師の著書『捨て身で生きる』に紹介されている、田崎先生ご自身の証しを読みました。ある日曜日、どうしても説教が出来なくて、著名な説教者の説教集から説教を拝借し、それに少々尾ひれをつけて語りました。それが、冒頭の言葉からの説教でした。

 荒れ野が美しい花園に変わったごとく、罪人が主の福音に触れて驚くべき変化を起こしたという話です。文語訳聖書は「野ばらの花」(ハバツェレト)を「番紅の花」と訳していました。「番紅」に「さふらん」という振り仮名が振ってあります。口語訳は「さふらん」、新改訳は「サフラン」としています。田崎先生はサフランを知らず、これを「ソーラン」と読みました。

 翌朝、教会の長老が先生の許に来て、「昨日の説教には全く感心致しました。そのお礼のしるしに、花を持参致しました。この花はサフランと申します。ソーランと読めば読めないこともありませんが、おそらくそれはサフラン、この花のことだろうと存じます。荒れ野に生じる薬草の一種で、御覧のように可憐な花です」と言います。

 長老が訪ねて来たのは、ソーラン、ソーランと繰り返し得意気に語っていた愚かな自分に忠告するためだったと気づかれて、拝借説教の顛末を正直に告白されました。すると、長老は床に跪き、「主よ、わが愚かなる罪を赦し、この若き先生を祝福して、ますます立派な牧師とおなりになることの出来ますように、ご聖別を垂れたまえ」と涙の祈りをささげ、非礼を詫びて静かに帰られたというのです。

 そして、「人の誤り、また他人の罪悪を攻撃したり、悪口を言ったりしているだけでは、世の中は悪くなっても、決して善くはならない。もし、人様の欠点に対して花を捧げ、祈りをもってこれに仕えるならば、これこそ、荒れ野は変じてサフランの花咲くところとなるのではないか。キリスト教の真理、神様の独り子イエス様が罪人のために生命を捧げて、そして救いを完成してくださったのだ」と記しておられました。

 主は、砂漠のような私たちの心にいのちの水を注ぎ、花を咲かせ、御霊の実を結ぶことが出来るようにしてくださいました。信仰の世界に目を開かせ、心挫け、足の萎えていた者に賛美の踊りを授け、福音を大胆に証しする者に変えてくださるのです。

 道であり、真理であり、命であられる主イエスを信じ、先立って進まれる主の御足跡に、おのが十字架を負い、喜びと感謝をもって従って参りましょう。

 主よ、私たちの弱っている手に力を与え、よろめく膝を強くしてください。主の御力に依り頼み、御言葉に聴き従うことが出来ますように。荒れ地に川が流れるように、聖霊の力を受けていのちの主キリストの恵みを証しすることが出来ますように。 アーメン