「主の書に尋ね求め、読んでみよ。これらのものに、ひとつも欠けるものはない。雌も雄も、それぞれ対を見いださぬことはない。それは、主の口が命じ、主の霊が集めたものだからである。」 イザヤ書34章16節

 イスラエルに対する終末の希望が語られた後、全世界の神に背く民への徹底的な裁きが語られます(1~4節)。そして、この神の怒りを受ける代表であるかのように、5節以下に、エドムに対する神の裁きが記されています。13~27章にも周辺諸国に対する裁きの預言が語られており、その代表として、バビロンが取り上げられましたが、そのシリーズにエドムは登場して来ませんでした。

 エドム人は、イスラエルの父祖ヤコブの兄エサウの子孫です。つまり、イスラエルと血縁関係にあります。エドム人の地は死海の南部、セイルの山地です。そこは主がエサウの子孫に与えたもので、イスラエルの民には与えないと、エジプトを脱出して約束の地を目指していた折、主がモーセに語られたことがあります(申命記2章1~8節)。

 2,5節に「絶滅する」(ハーラーム)という言葉があります。これは、申命記7章2節で、「滅ぼし尽くさねばならない」と訳されている言葉です。新改訳聖書では「聖絶」と訳されます。即ち、イスラエルの民が他の神々に惑わされて神の怒りを招かないよう、カナンの地の先住民(ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人)を絶滅させよというわけです。

 しかしながら、イスラエルの民はその掟を守らず、彼らと交わり、異教の神々に仕える道を進みました。鉄の戦車で武装する強い先住民を追い出すことが出来ず(ヨシュア記17章16節など)、むしろ、先住民の風俗、習慣に倣い、彼らの神々を礼拝することにより、自分たちの生活の安定、平和を図ろうとしたのでしょう。そのために、神の怒りを招く結果となりました。

 6,7節でエドムに対する陰惨な裁きが語られる背景には、「報復の日」(8節)という言葉があるように、エドムとイスラエルとの間の確執があげられます。ダビデの時代、周辺諸国との戦いがなされた際、塩の谷でエドム人1万8千を討ち殺し(サムエル記下8章13節)、その後の占領政策で軍の司令官ヨアブがエドムの男子をことごとく打ち殺したという報告があります(列王記上11章15節)。

 それに対して、バビロンがイスラエルに攻め寄せたとき、エドムはユダが絶滅することを願ってエルサレム占領軍に加わり、その後、イスラエル南部を領有したりしています。ここに、神による絶滅が、報復が報復を生むというかたちで語られていると言ってもよさそうです。

 徹底的な殺戮で住人の絶えた地は(6節)、火と硫黄の燃える地となり(9,10節)、「茨」や「いらくさとあざみ」が生い茂り(13節)、「ふくろうと山あらし」、「みみずくと烏」(11節)、「山犬」、「駝鳥」(13節)、「ジャッカル」、「山羊」(14節)、「鳶」(15節)などの住処となります。

 かくてエドムの地は、33章に語られた祝祭の都エルサレムとは正反対に、死の支配する呪われた地となったのです。

 冒頭の言葉(16節)に「主の書に尋ね求め、読んでみよ」とあります。それは、エドムの領地が廃墟と化し、あらゆる獣の住処となることなどが、「主の書」に記されているということで、即ち、エドムが絶滅させられるのは、主の定めということです。獣の住処とすべく、主の霊がそれを集めたということは、そこには、二度と悪をなす人を住まわせないということでしょう。

 けれども、イスラエルは憐れみを受け、エドムは絶滅させられるというのは、もう一つ胃の賦に落ちないものがあります。イスラエルは真の神を知り、その恵みに与りながら、神に背いて異教の偶像に走って神の怒りを招いたのです。エドムが絶滅させられるというなら、イスラエルの民は、人類の記憶から消し去られるほどに重く裁かれてしかるべきではないでしょうか。

 ですから、イスラエルが憐れみを受けて、聖なる都エルサレムが再創造されるとするならば、新生イスラエルには、エドム人を含むすべての民が憐れみを受け、その住民として招かれると考えるべきでしょう。

 事実、神の御子イエス・キリストは全人類の罪を贖うために十字架にかかられ、すべての民を弟子とするように招かれました(マタイ28章19節、マルコ16章15節)。信仰によってキリストと結ばれた者は、皆アブラハムの子孫であり、そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もないと、パウロは言いました(ガラテヤ書3章26節以下)。 

 放蕩息子のたとえ話において、落ちぶれ果てて帰って来た弟息子のことを兄息子に「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15章32節)と告げた父親とは、私たちの主なる神のことです。

 その深い愛と憐れみによって、私たちも主を信じる信仰に導かれ、神の恵みを受け継ぐアブラハムの子とされています。感謝と喜びをもって主に仕え、日々心新たに、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる者とならせていただきましょう。

 主よ、あなたの民でなかった私たちを「わたしの民」と呼び、宝の民としてくださるその深い愛と憐れみのゆえに、心から感謝します。そのために御子・主イエスが身代わりとなって死なれました。主の愛に留まり、御旨を行なって歩むことが出来るように、日々信仰に目覚め、御言葉に聴き従うことが出来ますように。 アーメン