「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。」 イザヤ書26章19節

 1~6節の段落には「勝利の歌」という小見出しがつけられていますが、内容的には4節の「主に信頼せよ」という戒めが、この段落の中心テーマでしょう。

 1節に「我らには、堅固な都がある。救いのために、城壁と堡塁が築かれた」とありますが、城壁と堡塁で都が守られるわけではありません。5節には「主は高いところに住まう者を引きおろし、築き上げられた都を打ち倒し、地に打ち倒して、塵に伏させる」と記されているからです。

 25章2節にも、「あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とした」と記されていました。いかに堅牢な城壁を築くことが出来たとしても、その周りに堅固な堡塁を築いてはいても、神の守りがなくては、やがてそれは石塚となり、瓦礫の山になってしまうのです。

 実際、アッシリアの脅威からエルサレムの都を守ったのは、城壁ではありません(列王記下19章)。イスラエルの民が背きの罪から離れることが出来なかった結果、神の都はバビロン軍によって瓦礫の山とされてしまいました(同24章20節、25章参照)。

 詩編127編1節で、「主ご自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主ご自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」と言われているとおりです。即ち、主なる神がおられて守ってくださるからこそ、都が堅固にされるのです(25章4節)。

 そこで求められるのが、主なる神に対する信頼です(4節)。主ご自身が建ててくださる家とは、私たちが主を礼拝する神殿、神がそこにお住まいくださる神の宮のことといってもよいでしょう。主は、御自分に信頼する者たちと共におられ、自ら堅固な城壁となって平和を授けられ(1,3節)、安んじて眠ることが出来るようにしてくださるわけです(詩編127編2節も参照)。

 7節以下の段落には、「復活を求める祈り」という小見出しがついています。それは、冒頭の言葉(19節)の「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように」と祈る言葉があるところからつけられたものでしょう。

 これはしかし、死んだ者が再び息を吹き返すという、所謂、蘇生を求める祈りではないでしょう。14節に「死者が再び生きることはなく、死霊が再び立ち上がることはありません」と語られています。であれば、「死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がる」というのは、神と民との関係を指していると考えるべきでしょう。

 放蕩息子のたとえの中で、父親が弟息子の帰宅を、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカ福音書15章11節以下、24節)と喜び祝っています。

 この話の中で、弟息子は本当に死んでいたわけではありません。父親の財産の生前分与を要求して家を飛び出して行ったとき、弟息子の中では、父親との関係、また長兄との関係は、既に死んでいると言わざるを得ない状況だったのです。

 しかしながら、父親の方は弟息子の帰宅を、首を長くして待っていました。見つけると走り寄って接吻し、最もよい服を着せ、履物を履かせ、指輪をはめてやりました。親子の関係が復活したのです。そうして、祝宴が開かれます。ここに弟息子は、改めて父親の深い愛を知りました。恵みを味わいました。

 そもそも、彼が本心に返ることが出来たのは、父親の愛のゆえです。父親は、雇い人にも有り余るほどに食物を与えていました。塵の中に住まい、死と隣り合わせに生きていた弟息子は、もう一度、父親の愛を思い出したのです。親子の契りが結べるとは考えず、それゆえ、雇い人の一人として家に入れてくれるよう懇願するつもりでしたが、父親の愛は、弟息子の思いをはるかに超えていたのです。

 かくて、再び親子の関係を取り戻すことが出来た弟息子は、心に平和を得、喜びと感謝に満たされ、今後、雇い人のひとり以上の働きをもって、父親と共に生きようと決意したことでしょう。

 たとえ話の中に描かれているこの父親こそ、私たちの罪を御自身の身に引き受け、十字架に死んでくださった主イエス・キリストです。その死によって、罪と死の力を打ち破ってくださいました(第一コリント書15章54節以下など)。この愛のゆえに、神の命が死を飲み込み、私たちは罪赦されて神の子とされ、新しい永遠の命に生かされるのです。

 どんな時にも主を信頼して、その御言葉に耳を傾け、主に従って生きる者とならせていただきましょう。

 主よ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身につけ、真理に基づいた正しく清い生活を送ることが出来ますように。光の子どもとして、何が主に喜ばれることかを吟味し、わきまえつつ、光のうちを歩んで主と交わりを持ち、豊かな実を結ぶことが出来ますように。 アーメン