「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった。」 イザヤ書12章2節

 12章で、第一イザヤ(1~39章)の預言の第一部(1~12章)が終了します。第一部の最後に「救いの感謝」が記されています。

 これは、主に背き続けたユダを裁く(3~5章)ために、神の道具として用いられたアッシリアが、奢り高ぶりのゆえに衰弱と火をもって神に撃たれること(10章16節)、そして第二のダビデが立てられ(11章1節以下)、各地に散らされた「残りの者」が帰って来ること(11章11節以下)に対する感謝、あるいは信仰の宣言といってよいでしょう。

 感謝の言葉は、「その日には、あなたは言うであろう」(1,4節)という言葉によって導かれます。つまり、神の救いの御業が実現した暁には、感謝の歌を歌うことになるということです。「その日」とは、11章11節以下にある、主なる神がご自分の民の残りの者を買い戻される日のことです。

 まず、1節と2節に、救いに対する感謝の歌が予告されています。冒頭に「主よ、わたしはあなたに感謝します」と語られています。その感謝の理由を「あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが、その怒りを翻し、わたしを慰められたから」と語って、主の赦しと救いのゆえであることが言い表されています。

 ここで、神が南ユダに向かって「怒りを燃やされた」というのは、南ユダ王国にアッシリアの危機が迫り、あと少しで滅びを刈り取らなければならないところだったということで、その原因は神を怒らせた自分たちの背きの罪にある、と告白していることになります。

 このように、イスラエルの民が救いに与り、慰めを受けたのは、神の一方的な恵みです。民が悔い改めて一心に神に聴き従うようになったから、というようなことではないのです。それが、「その怒りを翻し、わたしを慰められた」という言葉に表れています。

 神はヒゼキヤを立て(列王記下18章1節以下)、アッシリアの脅威に対して御自身に依り頼むように導かれました(同19章1節以下)。そして、御手を伸べてアッシリアを撃ち(同35、36節)、ユダに救いをもたらしてくださったのです。

 そこで、冒頭の言葉(2節)の通り「見よ、わたしを救われる神、わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」と歌います。

 「わたしは信頼して、恐れない」という信仰の宣言こそ、イザヤがアハズ王から聴きたかった言葉です(7章4,9節参照)。しかし、アハズは敵を恐れて神を畏れず、異邦人を信頼して神に頼りませんでした。それゆえ、滅びを招く結果になったのです。

 イザヤは、この救いを第二の出エジプトと考えているかのようです。冒頭の「主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」という言葉は、エジプトを脱出したイスラエルの民を追いかけて来たエジプト軍を、神が葦の海に投げ込んで滅ぼされたとき、モーセとイスラエルの民が主なる神に献げた歌の一節だからです(出エジプト記15章2節)。

 また、「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水を汲む」(3節)というのは、救いの神から、命の力と恵みを受けるということを象徴しています。これは、もはやアッシリアの脅威に怯えることはないということでしょう。この2,3節に「救い」(イェシュア)という言葉が3度語られます。

 イザヤの預言の中には、子どもの名がイスラエルに与えられるしるしとして、重要な役割を果たしています(「シェアル・ヤシュブ」(7章3節)、「インマヌエル」(7章14節)、「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」(8章3節)。それと同様、イザヤの名もしるしとして与えられたものなのです。

 8章18節に「見よ、わたしと、主がわたしに委ねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である」と言われていました。「イザヤ」は、ヘブライ語で「イェシャヤフー」と言い、これは、「主は救い」という意味です。

 かくて、イザヤとその子らを通して示される預言は、イスラエルを断罪するものであっても、それは滅びを告げているのではなく、救いを語るものだということが分かります。

 私たちの信じる主は、「主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」と、歌わせてくださいます。イザヤが告げるとおり、「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない」と、絶えず信仰の宣言を致しましょう。

 主に感謝し、御名を呼びましょう。諸国の民に御業を示し、気高い御名を告げ知らせましょう(4節)。イスラエルの聖なる方は、私たちのただ中におられる大いなる方だからです(6節)。ハレルヤ! 

 主よ、命の水が川となって流れ出るまでに私たちを豊かに潤してくださることを信じます。その恵みを至るところで証しし、世界の果てまでその御業を示すことが出来ますように。主が私たちの力、私たちの歌、私たちの救いとなってくだったからです。主に感謝し、御名を呼びます。イスラエルの聖なる方は、私たちのただ中におられる大いなる方だからです。 アーメン