「主は言われた。『行け、この民に言うがよい、よく聞け、しかし理解するな、よく見よ、しかし悟るな、と』。」 イザヤ書6章9節

 6章には、イザヤが預言者として召し出されたときのことが記されています。それは、ウジヤ王が死んだ年のことでした(1節)。主なる神が、ご自身の姿をイザヤの前に現されました(1節)。主は天の御座に座し、衣の裾が神殿いっぱいに広がっていました。神殿の天井が抜けて、天の御座が見えたという光景を想像します。

 イザヤの頭上にセラフィムが飛び交い(2節)、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(3節)との賛美の声を聞かせ、その声で神殿の入口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされました(4節)。地震や煙は、出エジプト記19章18節と同様、主なる神がそこに顕現されたことを示しています。

 それを見たイザヤは、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(5節)と言います。罪深い人間は、清い神を見ることが出来ません。神を見た者は、その後、生き続けることが出来ないと、固く信じられていました(出エジプト記33章20節参照)。

 「神を見た人は死ぬという伝統的な思想(創16章13節、32章31節、出19章21節、33章20節、士6章22節、13章22節など)に基づく判断というより、その伝統的な思想の因って来たる所以を自ら体験しての判断と見るべきだろう。すなわち、罪から隔絶しこれを焼き尽くす(4章4節、9章18節、10章17節)聖なる神を目の当たりにした者は、それによって鮮明に照らし出された己の罪の穢れに絶望するという体験である」と、岩波訳の当該箇所の脚注に記されています。

 イザヤはこのとき、重い皮膚病になって死んだウジヤ王のことを思い出したのかもしれません。ウジヤ王は、イスラエル史上最長の52年間王位にありました(歴代誌下26章3節)。その善政のゆえに、国は繁栄しました(同4~15節)。

 ところが、次第に高慢になり、あるとき、神殿で香を炊く務めを行おうとしました(同16節)。祭司アザルヤがウジヤ王を制止しようとすると、ウジヤ王はそれを憤り、怒りを祭司にぶつけます(同17,18節)。そのとき、神がウジヤを打たれました(同19節)。

 イザヤは今、エルサレムの神殿にいます。ということは、イザヤは神殿で神に仕えるレビ族に属する者、あるいは祭司だったのでしょうか。神殿聖所に入れるのは、祭司、レビ人に限られていたからです。

 「災いだ。わたしは滅ぼされる」とイザヤが語ったとき、セラフィムのひとりが祭壇の炭火を取ってイザヤのところに飛んで来て(6節)、その口に火を触れさせて、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(7節)と言いました。

 祭壇の火で民の汚れを清め、罪を贖う儀式について、民数記17章に記されていますが、神はイザヤをご自身に仕える預言者として選び、用いるため、イザヤにその栄光の姿を見せ、恐れおののくイザヤを、祭壇の火をもって清められたのです。

 イザヤはそこで神の声を聞きます。それは、「だれを遣わすべきか、だれが我々に代わって行くだろうか」(8節)という声でした。それに対してイザヤは、モーセやエレミヤらとは異なり(出エジプト記3章11節、エレミヤ書1章6節参照)、すぐに「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(8節)と語ります。

 イザヤは、たった今神によって罪赦され、贖われる恵みを経験したばかりです。それはまさに、古い自分に死んで、神に仕える新しい人生の始まりを意味したのです(ローマ書6章11,13節、ガラテヤ書1章13節以下参照)。

 このように選び立てられた預言者イザヤに対して、神は特別な任務を授けます。それは、冒頭の言葉(9節)の通り、「行け、この民に言うがよい、よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と」というものです。続けて、「この民の心を頑なにし、耳を鈍くし、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めて癒されることのないために」(10節)と命じておられます。

 聞いて理解し、悔い改めて癒されるように語れというのではなく、聞いても理解するな、見ても悟るな、悔い改めて癒されることのないためにというのです。つまり、神はイザヤに、イスラエルが悔い改めをなすべき時期はもう終わった、もはやそれをするには遅すぎる、彼らには神の裁きが下ると告げさせようとしておられるわけです。

 それは、イスラエルの民自身が、「イスラエルの聖なる方を急がせよ、早くことを起こさせよ、それを見せてもらおう。その方の計らいを近づかせ、実現させてみよ。そうすれば納得しよう」(5章19節)などと語っているからです。なんと愚かなことでしょう。

 イスラエルの民に裁きを下すことにされた神は、しかし、決してそれを喜んでおられるはずがありません。怒りよりもむしろ、悲しみがその心を満たしていたのではないでしょうか。だからこそ、すぐに滅ぼし尽くされるのではなく、イザヤを遣わして「もう遅い」と語らせるのです。

 そして主は、そのように語らせながら、もしも悔い改めてくれば、ニネベの町の人々を赦し、災いを下すことを中止されたように(ヨナ書3章10節)、赦しをお与えになられるのです。それは、「わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」(5節)と語ったイザヤを、セラフィムの一人が祭壇の炭火で清めたところに、既に示されていました(6,7節)。

 今日も、愛と憐れみに富む父なる神を仰ぎ、その御声に耳を傾け、御霊の導きに従って歩みましょう。

 主よ、あなたは愛と憐れみに富むお方です。背いたイスラエルに悔い改めを解き、滅ぼすことに決められた後も預言者を遣わし続けられました。その愛と憐れみにより、私たちも救いの恵みに与りました。どうか、この恵みを無駄にせず、神の愛と憐れみを、その生活を通して証しするため、私たちを遣わしてください。 アーメン