「イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑。主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血。正義を待っておられたのに、見よ、叫喚。」 イザヤ書5章7節

 新共同訳聖書は、5章1~7節の段落に「ぶどう畑の歌」という小見出しをつけています。初めに「わたしは歌おう」(1節)といって歌い出すのは、イザヤ自身です。「わたしの愛する者」とは、主なる神のこと、そして、ぶどう畑とはイスラエルの家、ユダの人々のことを指しています。

 この書き出しから、洗礼者ヨハネが自分と主イエスの関係を花婿と花婿の介添え人として語った、「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人は傍に立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(ヨハネ福音書3章29節)という言葉を思い出します。

 ここに、主なる神が花婿、ぶどう畑とされているイスラエルの家が花嫁、そして、花婿の介添え人(=友)としてイザヤが登場しているということになります。花婿の友なるイザヤが、主なる神のためにぶどう畑の愛の歌をうたうのです。

 イスラエルは、ヨルダン川流域や北イスラエルの丘陵地帯には農耕に適した地が広がっていますが、南ユダ、エルサレムの南方には、農耕にあまり適さない荒れ野が広がっています。そこにぶどう畑を作ろうというのは、大変困難なことでしょう。もともと「肥沃な丘」(2節)ではなかったのです。

 肥沃な丘にするためには、固い地面を掘り起こして石を取り除き、土を豊かにするために堆肥を施さなければなりません。言葉で言うのは簡単ですが、重機はおろか鉄製の農具も満足に持ち合わせていないようなところで、それをするのはどんなに困難なことか、想像に難くありません。

 年月をかけてようやく立派な畑を作り上げ、そこに良いぶどうの苗を植え、丹精して収穫を待ちます。いよいよ収穫になりました。ところが、実ったのは、予想もしない酸っぱいぶどうでした(2節)。どうしてそうなってしまったのでしょう。全くわけが分かりません。

 それで、畑の持ち主が「わたし」として登場して、「わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ」(3節)と言い、「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」(4節)と尋ねています。

 外形は確かにぶどう、しかしながら、中身は似ても似つかないものになってしまっているというわけです。だから、畑の持ち主は怒って、畑を焼かれるまま、踏み荒らされるままにして見捨てると言います(5節)。

 これは、主なる神とイスラエルとの関係を言い表したもので(7節)、神はイスラエルに「裁き(ミシュパト:公正)」を期待されたのに「流血(ミスパハ)」を見、「正義(ツェダカ)」を待っているのに「叫喚(ツェアカ)」の声を聴くと言われます。

 ミシュパトとミスパハ、ツェダカとツェアカという二組のよく似た言葉、よく似た文字が用いられていますが、内容は全く違います。外形は似ていても内容は全く違う、よく世話をされたぶどう畑に、期待外れの酸っぱいぶどうが実った。礼拝の形式は整っているかも知れないけれども、そこに心が伴わないという状況なのでしょう。

 礼拝に心が伴わないというのは、心からの賛美ではない、説教を上の空で聞いているというような話ではありません。主なる神は、貧しい者や弱い者が守られる、公平で豊かなな社会が築かれることを願われたのに、強い者が弱い者を食い物にして、血が流され、その叫び声が響いているというのは、神の御言葉に聴き従おうとする姿勢ではないことを示しているというのです。

 29章13節の「主は言われた。『この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても、それは人間の戒めを覚え込んだからだ』」という預言も、そのことを教えています。 

  主イエスが「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父がとりのぞかれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(ヨハネ福音書15章1,2節)と言われました。

 さらに、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(同5節)と語っておられます。

 私たちは、どんな実を結んでいるのでしょうか。良いぶどうでしょうか、それとも酸っぱいぶどうでしょうか。豊かによい実を結ぶために、主イエスを信じ、謙ってその御言葉をしっかり聴きましょう(同7節)。

 御言葉をしっかり聴くとは、その命令を守ることであり(同9,10節)、その命令とは、主イエスが私たちを愛されたように、私たちが互いに愛し合うことです(同12節)。それが、主イエスの期待されている良いぶどうの実なのです。

 主よ、どうか御霊と御言葉の導きにより、私たちに手を入れて、良い実を豊かに実らせる枝とならせてください。あなたの深い愛と慈しみのもとにとどまり、互いに愛し合う家庭、社会を築くことが出来ますように。そうして、御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン