「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。」 箴言30章5節

 30章は「ヤケの子アグルの言葉」(1節)とされています。残念ながら、アグルもその父ヤケも、どのような人物なのか、皆目見当もつきません。箴言がソロモンの作と考えられているところから、アグルとはソロモンのこと、ヤケとはダビデのこととみなす人もいないわけではありませんが、それではなぜ、ここでソロモンをアグルといい、ダビデをヤケというのか、説明がつきません。

 新共同訳は、30章全体を「アグルの言葉」としていますが、70人訳、フランシスコ会訳は14節まで、岩波訳は9節までがアグルの言葉と解釈しています。それ以後は、また別の格言集と考えるわけです。

 次の「託宣」(マッサー)という言葉を、固有名詞で地名を示しているという解釈も出来ます(口語訳、新改訳、岩波訳など)。そうであれば、マッサーは、創世記25章14節にイシュマエルの息子(マサ)として記されており、これは、イシュマエル族が住んだアラビア半島の地名を指しているものと考えられます。

 また、「神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた」(1節)も、原文では「イティエルに、イティエルとウカルに」という人名に読めます。口語訳、新改訳は、その読みを採用しています。

 けれども、これでは全く意味不明なので、単語の区切り方などを変えて、新共同訳のように訳しているのです(岩波訳も同様)。即ち、アグルは神の知恵を得ようとあれこれ尋ね、探し求めたが、満足の行く結果は得られず、疲れ果ててしまったというわけです。

 4節の「天に昇り、また降った者は誰か。その手の内に風を集め、その衣に水を包むものは誰か。地の果てを定めたのは誰か。その名は何というのか。その子の名は何というのか。あなたは知っているか」という言葉は、ヨブ記38章4節で「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」と語られている主の御言葉などを思い起こします。

 理解出来ない悲しみや苦しみを味わって、ヨブはその理由を神に尋ね、自分の無実を認めて災いを撤回し、苦しみから解放されることを求めました。けれども、納得のいく回答は得られず、いよいよ疲れ果てたのです。しかるに、ヨブ記38章以下の主なる神の言葉は、ヨブの問いに答えるものではなく、質問に質問で返すといった形式になっています。

 けれども、主なる神の御言葉を聞いたヨブは、「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは』。その通りです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」(同42章2,3節)と答えました。

 そして、「あなたのことを、耳にしてはおりました。今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(同5,6節以下)と続けました。神の圧倒的な迫りを受けて、自らの小ささ、無知を思い知らされ、御前に平伏したのです。

 あるいは、ヤケの子アグルもヨブと同じような境遇で、同じような信仰体験をしたのではないでしょうか。そしてこれは、シモン・ペトロが主イエスの足もとにひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ福音書5章8節)と告げた心境にも通じていることでしょう。

 アグルは冒頭の言葉(5節)で、「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる」と言います。ペトロは主イエスから、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われて、その言葉に従ったとき、魚が大量に漁れました。ペトロはその現実に驚くと共に、主イエスが神であることを悟り、恐れ戦いてただ御前にひれ伏すほかなかったわけです。

 もしも、「主イエスのお言葉とはいえ、私たちは夕べ夜通し働いて何も漁れず、疲れ果てていますし、大体、今ごろ網を降ろしても無駄です」と答えていれば、そのような大漁を見ることはできませんでした。そして、主イエスの御前にひれ伏すことはおろか、主イエスが神であられることに気づきもしなかったことでしょう。

 その恵みは、主エスの御言葉に聞き従ったからこそなのです。「身を寄せればそれは盾となる」というのは、そういうことです。私たちも常に自分の罪を認め、主の御前にひれ伏して、その御言葉を聴きましょう。日々、聴いた御言葉を実行しましょう。

 主よ、あなたは私たちの前に灯火を輝かし、闇を照らしてくださいます。あなたの道は完全で、あなたの仰せは火で練り清められており、御許に身を寄せる人の盾となってくださいます。絶えず御言葉に聴き従うことが出来ますよう、あなたの平安で私たちの心をお守りください。 アーメン