「貧乏でも、完全な道を歩む人は、二筋の曲がった道を歩む金持ちより幸いだ。」 箴言28章6節

 冒頭の言葉(6節)は、19章1節の「貧乏でも、完全な道を歩む人は、唇の曲がった愚か者よりも幸いだ」に非常によく似ています。「貧乏でも」という言い方がなされるということは、貧しいということが人々に忌み嫌われる要因であったことを伺わせます(19章7節)。

 ここで、「完全」(トーム)と訳されている言葉には、「誠実」という意味もあり、口語訳は「正しく」、新改訳は「誠実に」、岩波訳は「まっとうに」と訳しています。誰が、完全な道を歩むことが出来るでしょうか。完全無欠の生活など、誰にも出来はしないでしょう。ではなぜ、新共同訳は「完全」という訳語を選んだのでしょうか。

 主イエスが山上の説教の中で、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ福音書5章48節)と言われました。不完全な私たちが、どうすれば完全な者となれるというのでしょうか。

 人間の知恵や力では、不可能でしょう。けれども、主イエスは私たちに、実行不可能な無理難題を押しつけて、弱り果てた私たちを嘲笑うというようなお方ではありません。であれば、主イエスは、本当に私たちが完全な者となるように願っておられ、そして、なれるとお考えになっているわけです。

 太宰府天満宮に祀られている菅原道真が、「心だに 誠の道にかないなば 祈らずとても 神や守らん」(「金玉抄」)という歌を遺しています。心さえ誠実であれば、祈り願わなくても神は守ってくれるというわけです。

 ここに、一般的日本人の神観があるといってよいでしょう。はっきり言って、道真は神の守りを当てにしてはいないのです。神の助けや守りがなくても、自分の心を清く、誠実に守ることが出来ると考えているのです。だから、「祈らずとても」と言うのです。しかしながら、現実はそうではありません。

 ヨブ記は、神の前に正しく歩んでいる者がなぜ不幸のどん底に突き落とされ、苦しめられるのかという問題を扱った書物です。ヨブは神から、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と評価される人物でした(ヨブ記1章8節)。そのヨブが苦しみを味わうと、死を願い始めます(同3章)。

 それを見ると、無垢で正しいというのは、ヨブ自身の実力などではないことが分かります。神の守り、支えがあってはじめて、正しく歩むことが出来る、汚れなき生活が出来るというものだったのです。

 アブラハムは75歳のとき、主の言葉に従ってカナンの地に移り住みました(創世記12章1節以下)。主なる神は「目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える」(同13章14,15節)と約束されました。

 しかし、アブラハムには子がありませんでした。祝福される神にアブラハムが、「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」(同15章3節)と言いますと、神はアブラハムに天の星を仰がせ、「あなたの子孫はこのようになる」(同5節)と言われました。

 すると、不思議なことにアブラハムは主を信じました。それは、御言葉を心に留め、繰り返し星を見上げているとき、それが自分の子孫の顔に見えて来たということでしょう。主の御言葉を聞き、主が見せてくださったビジョンに心を留めたとき、アブラハムの心は主への信仰に満たされたのです。その信仰を神は義と認められました(同6節)。

 「完全な道」とは、神に至る道といっても良いでしょう。それは、主イエスご自身のことです。主イエスが、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章6節)と言われている通りです。

 人の誠実さによって、父なる神のもとに到達することは出来ません。主イエスに信頼し、その導きに従って歩む時に、父なる神のもとに至るまったき道を行くことが出来るのです。ここに、新共同訳聖書が、「完全」という訳語を選んだ理由を見ることが出来ます。

 日々主の御顔を仰ぎ、御言葉に従い、父なる神を目指して歩ませて頂きましょう。

 主よ、あなたは全能の神であられ、不完全な罪人の私を完全な者とすることがお出来になります。主と主の御言葉に信頼し、すべてを御手に委ねて歩みます。どうか私をあなたの望まれるとおりの者にしてください。御名が崇められますように。 アーメン