「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」 箴言25章21,22

 25章から「ソロモンの箴言(補遺)」(25~29章)という段落に入ります。1節はその表題で、「ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が筆写した」と記しています。それを文字通り受け止めれば、紀元前716年から686年まで在位したユダの王ヒゼキヤに仕える人々や若者たちの教育のために集められたものといってよいでしょう。

 ヒゼキヤは、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされる以前から父アハズと南ユダを共同統治していました(紀元前729年頃から716年頃まで)。アハズはアッシリアに朝貢し、ユダに異教の慣習が導入されました(列王記下16章3節以下)。

 北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされたのは、バアル礼拝など神の教えに背く行為のためと悟ったヒゼキヤは、アハズに代わって王となってから、国内に宗教改革を断行し(同18章3節以下)、神の助けを得てアッシリアを退けることが出来ました(同19章参照)。

 そのような背景の中で、国を治めるために必要なものとして、ヒゼキヤは富や武力ではなく、先人の知恵を求めたのでしょう。そして、その格言は「主を畏れることは知恵の初め」(1章7節、9章10節、15章33節)と教えます。

 25章は、比喩的な格言のかたちで様々な話題が寄せ集められています。たとえば、3節に「王の心の極め難さ」を「天の高さと地の深さ」にたとえて示しています。確かに、ときの指導者の心中は、なかなか量りがたいものです。

 その中で、冒頭の言葉(21,22節)が目にとまりました。敵に食べ物、飲み物を与えよという勧告は、24章17,18節の「敵が倒れても喜んではならない。彼がつまずいても心を躍らせるな。主がそういうあなたを見て不快とされるなら、彼への怒りを翻されるであろう」という禁令にも通じるものがあります。

 使徒パウロが、冒頭の言葉を引用しながら、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ書12章20,21節)と語っています。

 第一ペトロ書3章9節に「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」という言葉が記されていますが、これも同じ精神を示しています。

 ところで、「こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む」とは、どういうことでしょうか。「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ書12章19節)との関連で、私たちが敵に施しをすることで、かえって神は敵の罰を重くされるという意味だと解することも出来ます。そういう趣旨の話を伺ったこともあります。

 しかしながら、この文脈から考えれば、その解釈は明らかに誤りです。「善をもって悪に勝ちなさい」と教えていながら、私たちが敵に善を行えば、神が敵にもっとひどい罰を与えるということであるというならば、それはただ、自分の手を汚さず、神にきっちりと仕返しをしてもらうということでしょう。

 つまり、自分が相手に与えた施しは、相手に対する呪いの行為ということになります。そうすると、どうしてそれが、善をもって悪に打ち勝ったということになるのでしょうか。そのことについて、ドイツの信徒向けに著されたNTD新約聖書注解に、よい解説が記されていました。

 「復讐を神の御手に委ねるというのは、一見無力を示しているようであるが、それは内側に神の偉大な愛の力を頂くということだ。そして、その愛の力は、敵の心に、頭に積まれた熱い炭火のような耐え難い思いを与える。
 それは、神様からお灸を据えられたようなことだ。その熱さに耐えかねて、敵は兜を脱がざるを得ない。神の愛は、敵の心をいたく恥じ入らせ、それによって敵の内側から悪意を抜き去ってしまうという、驚くべき力を秘めている。
 こうして、報復を神の手に委ね、自らは善意で答えようとする態度は、安易な神頼みと現実逃避ではなく、驚くべき底力のある強さであり、悪を克服する善の力を信じて、善をもって悪に打ち勝とうとするすることである。
 これは、『あなたがたも聞いているとおり、「目には目を、歯には歯を」と命じられている。しかし、わたしは言っておく、だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい』(マタイ福音書5章38~41節)、『あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである』(同43~45節)と主イエスが山上の説教で教えられたことを、パウロなりの立場と方法で語ったものということができよう」。

 つまり、神の報復というのは、天から火を下して敵を滅ぼすという重い罰などではなく、圧倒的な愛の力によって敵愾心や悪意を打ち砕き、神の御前に恥じ入らせ、思いを転化させるというものだというのです。

 これは、頭で考えて納得出来るものではないかも知れません。きっと甘過ぎると感じることでしょう。 そう上手くことは運ばないと思うでしょう。けれども、それがキリストの教えに示された神の愛なのです。そしてそれは、キリストの十字架に示されるものです。神は、私たちの罪を御子キリストに負わせ、私たちに愛を示し続けてくださっています。

 そのことに気づかされたとき、私たちの内側に、己が罪ゆえに主イエスが苦しまれたことによる耐え難い痛みと、どう申し上げてよいのか分からない感謝が湧き上がって来ます。キリスト・イエスのお蔭で神との間に平和を得た私たちは(ローマ書5章1節)、与えられた聖霊を通して心に神の愛が注がれており(同5章5節)、それによって苦難をさえ誇り、喜びとすることが出来ます(同3節)。 

 そのように神の愛を受けた者として、主の教えに従い、聖霊の力と導きを受けて、その愛に生きるものとして頂きましょう。

 主よ、私たちが受けている考えられないほど大きな愛と赦しを、私たちの回りにいる人に少しでも示して行くことが出来ますように。苦々しい思いを持つ人にも、挨拶から会話を始めることが出来ますように。私たち自身の内に愛の奇跡を起こしてください。 アーメン