「主はヤコブを御自分のために選び、イスラエルを御自分の宝とされた。」 詩編135編4節

 135編は、神による創造と救いの恵みにより、主なる神をたたえる賛美の詩です。

 1節の初めと3節(「主を賛美せよ」はハレルヤ)、21節の最後に「ハレルヤ」、1節で「主を賛美せよ」(ハレルー・ヤハウェ)、19節以下で「主をたたえよ」(19,20節はバーラクー・エト・ヤハウェ、21節はバールーフ・ヤハウェ)が繰り返し詠われて、136編と共に「大ハレル」と呼ばれます。

 4、5節の冒頭には、「キー(「なぜなら」の意)」という接続詞(新改訳、岩波訳はこれを「まことに」と訳し、口語訳、新共同訳は訳出していない)があり、1~3節の賛美の理由、根拠を示しています。

 まず4節(冒頭の言葉)では、ヤコブ=イスラエルを主が宝の民として選ばれたことを挙げ、そのテーマを8~12節で展開しています。主がイスラエルを宝の民として選ばれたことについては、出エジプト記19章5節、申命記7章6節などにも記されています。

 また、5節では、主なる神の偉大さを挙げ、天と地、海とその深淵において御旨を行い、すべてのものを統べ治めておられることを6,7節で歌います。それに対して15節以下で、異国で神々として祀られている偶像は、人間が自分たちの手が造り出したもので、それに依り頼むことの虚しさを告げています。

 上述の通り、主がご自分の宝としてヤコブ=イスラエルを選ばれたことについて、歴史の中に働いて、エジプトの奴隷であったイスラエルを解放し(8,9節、出エジプト記12章)、ヨルダン川東部でシホンとオグを討ち(11節、民数記21章)、ヨルダン川西部でカナンの王たちを討って(11節、ヨシュア記12章7節以下)、その領地を嗣業としてお与えになったと告げます(12節)。

 あらためて、なぜ主は、ヤコブ=イスラエルを御自分の宝として選ばれたのでしょうか。

 イスラエルの父祖ヤコブは、双子の兄エサウの長子の権利を一杯の豆の煮物と交換して手に入れ(創世記25章22節以下)、そして、兄エサウに与えるはずの祝福の祈りを、父イサクを騙して奪い取りました(同27章1節以下)。

 長子の権利と父の祝福を奪われた兄エサウは激怒し、弟ヤコブを殺そうと思うようになります(同41節)。それを知った母リベカは、ヤコブを自分の実家のあるハランに逃がします(同42節以下)。

 母の実家のあるハランの町に向かうヤコブは、旅の途中、荒れ野で野宿します(同28章10,11節)。そのとき、神がヤコブに天に達する階段を天使が上り下りしているという幻を見せられました(同12節)。

 そして、ヤコブに祝福を語られました。それは、主が常にヤコブと共にいて、ヤコブを守り、そして、逃げ出したイスラエルの家に連れ帰ってくださるという約束です(同13節以下)。つまり、兄から長子の権利を奪い、父を騙して祝福を奪ったヤコブを、神が祝福されたのです。

 その後、ハランに着いて叔父ラバンの娘たちを娶り、家畜を飼う仕事を手伝ったときには多少の苦労はしましたが(同29章14節以下)、神の助けによって、たくさんの家畜を持つようになりました(同30章43節)。そして、意気揚々故郷に帰ることになります。

 家に帰るに先立って使いをやったところ、兄が400人の供を連れて迎えに出るという返事です(同32章4節以下、7節)。それに恐れをなしたヤコブは、群れの中から兄への贈り物を選び、それで、兄の心を和ませようと考えます(同14節以下)。

 しかし、それでも安心出来なかったヤコブは、家族に先にやり、一晩中神の使いと格闘します(同23節以下、25節)。その後、神の使いはヤコブに祝福を二つ与えます。一つは、「イスラエル」即ち「神と人と闘って勝った」という名(同29節)、もう一つは、腿の関節が外されて引きずって歩くようになった足です(同32節)。そのため、もう逃げ出すことが出来ません。

 ヤコブは、兄エサウと再開を果たします(同33章1節以下)。そして、兄エサウは、弟の罪を全く話題にしません。既にそれを赦し、忘れてしまったかのようです。

 ヤコブは、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」と言います(同10節)。これは、おべっかというより、神は罪を赦すお方であるという信仰の表明であり、兄エサウがさながら神のように、罪を赦してくれたことに対する感謝を言い表しているわけです。

 神がヤコブを選ばれたのは、ヤコブが優れているからではなく、神の助けと赦しなしには生きられないことをヤコブに学ばせるためでした。申命記7章7節では、「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちがどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」と語られています。

 イスラエルという名を与えたのは、目的のために手段を選ばないという生き方ではなく、主なる神に信頼し、互いに赦し合い、愛し合って生きる者となること、そのような民を神が御自分の宝とするという祝福なのです。

 新約の時代にペトロが「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(第一ペトロ書2章9節)と語っているのも、同じ信仰を表明しているのです。

 ここで、ペトロからあなたがたと呼ばれているのは、ユダヤの民ではありません。「ポントス・、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいしている選ばれた人たち」(同1章1節)、即ち今のトルコに住む異邦のキリスト者たちのことで、主イエスを信じる信仰によって、神のものとされているのです。

 恵みによって神のものとされた私たちに主イエスが「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13章34,35節)と言われました。

 聖霊によって注がれる神の御愛で心を満たし(ローマ書5章5節)、主イエスに従って互いに愛し合う者とならせていただきましょう。 

 主よ、私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、神の民の一員に加えられました。その恵みに与ったものとして、互いに赦し合い、愛し合って歩むことが出来ますように。それによって私たちがキリストの弟子であることを、多くの人々に証しすることが出来ますように。 アーメン