「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」 詩編133編1節

 133編は「都に上る歌」の14番目で、シオンに一つの家族として集う者たちの味わう恵みの喜びをうたった詩です。

 冒頭の言葉(1節)は、この詩の主文です。原文は「見よ」(ヒンネー)、「なんと良いことか」(マー・トーブ)、「そして、なんと美しいことか」(ヴ・マー・ナーイーム)、「兄弟たちが座っている」(シェベト・アヒーム)、「また一緒に」(ガム・ヤーハド)という言葉遣いになっています。新共同訳は、「良いこと」(トーブ)を「恵み」、「美しいこと」(ナーイーム)を「喜び」と訳しています。

 「兄弟が共に座る(住む)」という表現は、旧約聖書の中であと一度、申命記25章5節(「兄弟が共に暮らしていて」)に登場します。それは、レビラート婚と呼ばれる制度を定めた箇所で、親兄弟家族が共に住むことが前提となっていることを示しています。

 ここでは、親兄弟家族が仲良く共に暮らす喜びが歌われています。兄弟、家族が仲良くというのは勿論のことでしょうけれども、和合している兄弟、家族を周りで見ている者にも、その喜びが伝わっているという様子が覗えます。

 さらに、兄弟を「同胞」ととって、イスラエル全部族が神の御前に共に座し、神に礼拝をささげることをとおして、そこに真の神の家族が形作られていることを意味し、その喜びが語られていると読むことも出来ます。

 紀元前587年にバビロンによってエルサレムが陥落し、神殿が破壊され、捕囚とされたイスラエルの民にとって、もう一度エルサレムに戻り、そこで礼拝が出来るようになることは、彼らの悲願、切なる祈りだったと思います。

 紀元前587年にバビロンによって破壊されたエルサレムの神殿が、捕囚から解放されて22年後の紀元前516年、ダレイオス王の治世第6年に再び建て直され(エズラ6章15節)、神の御前に礼拝をささげることが出来るようになりました。

 そこで盛大に祝われる祝祭に、国内に留まらず、様々な国地域から巡礼者がやって来て、祝いの食卓を共に囲み、仮庵で共に過ごすなどして、皆が一つの家族となって礼拝をささげるのです。それは、どんなに大きな喜びとなったことでしょう。「なんという恵み、なんという喜び」(1節)という言葉がそれを示しています。

 もしかすると、詩人はそのような日が再びやって来ると、考えることができなかったのかも知れません。あるいは、考えてはいても、実現するはずもないと思っていたのでしょう。それが実現したのは、神の恵み以外の何ものでもありません。それはまさにアメイジング・グレイス、考えられないほどの恵みだというわけです。

 2節に「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り、衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り」とあります。エルサレムの神殿で奉仕する祭司を聖別するために、油が頭に注がれると、それがひげに流れ、そして衣の襟に達したということです。

 「衣の襟」とは、祭司の祭服で一番上に身につけるエフォドのことを指しているのだろうと思われます(出エジプト記28章6節以下)。エフォドには、その肩の部分に十二部族の名が記された石がつけられていました(同9,10,12節)。祭司に油が注がれ、それが襟に滴っているということで、神の祝福が祭司を通して、12部族に注がれることを示しています。

 主イエスが十字架にかかられる前、ベタニアのシモンという人の家で食事の席についておられたとき、一人の女性が主イエスの頭に、純粋で非常に高価なナルドの香油を注ぎかけました(マルコ福音書14章3節)。

 主イエスはそれを、「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われました(同8節)。大切な使命のために、聖別の儀式が行われたと考えてもよいでしょう。

 そのために払った犠牲の大きさは、女性が主イエスをどれほど大切に思っていたかということを表しています。主イエスは、その愛の香りに包まれて十字架に向かわれました。それは、主イエスの贖いの死を通して、神の愛がすべての者に注がれるためでした。

 3節に「ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる」とあります。ヘルモン山はイスラエル北方、シリアにそびえる山です。シオンの山々とは、エルサレムを指しています。高山に降りた露が滴り流れて、ヨルダンの流れとなり、遠くシオンを潤しています。

 そのように、「シオンで、主は布告された。祝福と、とこしえの命を」(3節)という言葉で、エルサレムから、主を仰ぎ、御名をほめたたえる人々の住む全世界に主の祝福と永遠の命が届けられるというわけです。

 神は、この世を愛して御子を遣わされ、御子を信じる者に永遠の命をお与えになりました(ヨハネ福音書3章16節)。御子を信じた者たちに聖霊の油を注ぎ、この良き知らせを全世界に出て行って証しするようにと命じられました(マタイ福音書28章18節以下、使徒言行録1章8節)。今日、世界のいたるところにキリストの教会が建てられ、主なる神を礼拝しています。

 私たちが聖霊の導きを得て、信徒同士が互いに愛し合い、一つになって礼拝をしている姿を主が見られるとき、主はそれをどんなに喜んでくださるでしょうか。

 あらためて、主の十字架を拝し、聖霊に満たされることを祈り求めましょう。キリスト者の一致は、キリストの福音を信じる信仰により、そして、聖霊に満たされることによってもたらされるものだからです。

 主よ、私たちが互いに愛し合うことを通して、私たちが主イエスに従う者であることを証しするため、聖霊の満たしと導きに与らせてください。このレント、イースターに、多くの方々に主の愛と恵みの福音を告げ知らせることが出来ますように。そうして、救いに与る人々が次々と起こされますように。 アーメン