「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。」 詩編131編2節

 131編は「都に上る歌」の12番目、宮詣に際し、自分の分を弁えて主に信頼し、主を待ち望むよう勧める教訓的な詩です。

 聖書を読みながら、神様は本当に私たちのことをよくご存知だと思わせられます。様々なことに心惑わし、平安のない私たちに、「主に望みをおき、主を待ち望め」と130編で語られましたが、今日も、同様に語っていてくださいます。

 調べてみると、「恐れるな、恐れてはならない」という言葉が、新共同訳聖書で110回用いられています。聖書を一年で読み通せば、3日に一度「恐れるな」と語られている言葉を聞くという計算になります。それほどに、私たちは様々なことに心騒がせて平安を失い、あるいは人の目を気にし、また恐れを抱いているのだと教えられます。

 1節に「わたしの心は奢っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」とあります。ここで「奢る」(ガーバー)は「高い、高ぶる」、「高くを見る」(ルーム)は「高ぶる、高慢になる」という言葉です。

 主が憎まれ、心からいとわれるものとして、箴言6章17節に「驕り高ぶる目、うそをつく舌」と言われています。また、「破滅に先立つのは心の驕り、名誉に先立つのは謙遜」(同18章12節)という言葉もあります。

 究極の奢り高ぶりは、自分を神のように思い、考えることです(エゼキエル書28章2,5,17節参照)。即ち、何でも分かる、何でも出来ると考えているということです。

 「大きすぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」(1節)とは、「大きいこと(ガードール)の内を、また、わたしから不思議に見える(パーラー)中を歩かない」という言葉遣いです。136編4節に「ただ一人、驚くべき(パーラー)大きな御業(ガードール)を行う方に感謝せよ」と言われ、それは神のなさることだと示しています。

 表題に「ダビデの詩」とありますが(1節)、詩人が王であれば、その立場上、どんな情報でも知識でも手に入れることが出来ますし、国内のことは何でも思い通りに出来るものでしょう。そのとき、よほど思い上がらぬよう注意していなければ、罪を犯してしまう危険があります。

 ダビデは、自分の部下の妻と姦淫し、部下を殺す罪を犯しました。預言者ナタンに罪を指摘されるまで、自らその罪の重さに気づきもしませんでした。ダビデはそのとき、権力の座にあって自分の欲望に支配されていたわけです。

 エデンの園の中央にある善悪の知識の木の実を食べたアダムとエバは、神のように賢くなれると蛇に唆されて、神に背く罪を犯してしまいました(創世記3章参照)。神のようになれるということがどんなに大きな誘惑なのか、そこに象徴的に示されています。

 詩人がここで、奢らない、高ぶらないと言っているのは、何でも知りたい、望むものを手に入れたい、思い通りにしたいとは思わないということ、そんな自己本位なプライドはいらないということでしょう。というのは、自分自身に頼る必要がないからです。

 ダビデ王のような境遇になったことはありませんが、また別の意味で、何でも分かりたい、思い通りになって欲しいと考えることがあります。たとえば、自分が苦しみの中にいて、なぜそんな苦労をしなければならないのか、なぜ自分の祈り、願いが叶えられないのかと考えるのです。自分の心が問題一杯、恐れや不安、そして不信と不満で満ちています。

 そうした自分の欲望、あるいは恐れや不安、不信と不満などで満たされる代わりに、詩人は冒頭の言葉(2節)のとおり、「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」と語ります。

 ここで、「幼子のように」と訳されているのは、「乳離れした子のように」(ケ・ガームル)という言葉です。乳離れした子が母の胸にいるというのは、なにがしか問題があったということでしょう。だから、母親がその子を抱き上げたのです。

 たとえば、夜の闇に怯えて泣き声を上げた幼子を、母親が胸に抱き上げてあやします。すると、闇がなくなったわけではないのに、幼子は安心して再び眠ります。幼子にとって、母の胸以上に自分を安心させ、寛げる場所はないからです。

 この比喩によって、不安や恐れの中に置かれた人間にとって、神との交わり、神への信頼こそが、「魂を沈黙させる」もの、即ち、平安と幸いを得る最大の秘訣であることを教えています。

 神は様々な問題を通して、私たちを謙遜にさせ、御自分のために心を整えさせられます。もしも心の畑が耕されておらず、踏みつけられ固められた道端のようであれば、あるいは、頑なな心のままであれば、あるいはまた、日常の出来事に心ふさがれておれば、種が芽を出すことも困難で、花を咲かせ、実をつけることが出来ません(マルコ4章1節以下参照)。

 よく実を結ばせるためには、深く耕された良い畑が必要です。良い畑に種が蒔かれると、30倍、60倍、100倍の実を結ぶのです(同8節)。それは、「御言葉を聞いて受けれる人たち」(同20節)のことと説明されます。

 私たちの人生において、豊かな実りを迎えるためにも、問題の背後にある神の御手にすべてを委ね、母の胸に憩うごとく魂を沈黙させて、主を待ち望め、その御言葉に耳を傾け、受け入れよと言われているのです。

 主の僕として、自分の使命を自覚し、その業に励みましょう。その結果も含め、すべてを主の御手に委ね、主を待ち望みましょう。

 主よ、御言葉を感謝します。そして、祈ることが出来る幸いを感謝します。あなたは私の問題をご存知であり、そして私の必要をご存知です。その一切を御手に委ね、ただ主を待ち望みます。あなたがなしてくださることが、最善だからです。主に信頼することこそ、私たちの平安であり、力です。 アーメン