「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい。」 詩編127編1節

 127編は、「都に上る歌」(120~134編)の8番目、ちょうど真ん中にあって、主なる神に信頼する平安と祝福を教えています。

 表題に「ソロモンの詩」(1節)とあるのは、2節の「(彼の)愛する者」(エディードウ)という言葉が、ソロモンの幼名「エデイドヤ」(「主の愛する者」の意、サムエル記下12章25節)によく似ているということで、そのようにつけられたのではないかと考えられます。70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)は、「ソロモンの詩」という表題を省略しています。

 1,2節に「むなしい」(シャーウェ)という言葉が3度、出て来ます。それは、家を建てる人の労苦、夜通し町を守る人の労苦、そして、朝早くから夜遅くまでの日常の労苦について語っているものです。

 冒頭の言葉(1節)で、「家」は、「神殿」と訳すことも出来ます。ソロモンの建てた神殿は、バビロンによって焼かれてしまいましたが、バビロンから解放されて帰国した人々が2番目の神殿を建てます。

 そこで、主なる神が神殿を建ててくださるのでなければ、労苦することは空しいと言われるのは、無駄だからやめようと言っているのではなく、神殿を建てる業は神の祝福に基づく業、それこそ、主ご自身が建ててくださるのだから、どんなに苦労があり、それで空しさを覚えることがあっても、徒労に終わらせず、信仰をもってやり遂げようと語っているわけです。

 また、「家」には冠詞がついていません。「ザ・ハウス」ではなく、「ア・ハウス」なのです。ですから、普通の家を建てることとも考えられます。そうであれば、事情は少々違って来ます。

 ハガイ書1章4節以下に、捕囚から帰還した人々が神殿よりも自分の家の再建を優先させたことに対する神の裁き、あるいは、警告が語られています。それとの関連を考えると、神を無視した自宅の建築は、無駄なこと、空しいことになると言われているようです。

 かつて、王宮に住むようになったダビデが、神殿を建てたいと主なる神に願ったとき(サムエル記下7章2節)、主はそれを留められました(同5節以下)。

 そして、「主があなたのために家を興す」と言われました(同11節)。それは、ダビデに王国を嗣ぐ子を与えてくださり、その子が神殿を建てることになるということでした。つまり、子らによって、家が堅く建てられるというわけです(同12節)。ダビデの家は、まさに主御自身によって建てられたのです。

 このことは、後半(3節以下)の「子らは主からいただく嗣業。胎の実りは報い」(3節)などと言われるところにも示されます。詩人は、仕事の成功と家庭の繁栄は、共に主の祝福として与えられるものとして、ここにそれを結び合わせているのです。 

 「町を守る人」は、ネヘミヤ記4章1節以下を思い起こします。同9節に「わたしたちが気づき、神がその計略を破られたことを敵が知ったので、わたしたちは皆、城壁に戻り、それぞれ自分の作業に就いた」と記されています。即ち、城壁の再建を妨害する敵に対して、神御自身が見張りをしてくださったということです。

 詩人は、エルサレムの城壁再建にあたり、敵の計略を破られた神が、今も町を見張り、また配慮し続けていてくださると言っているわけです。その意味で、町を守るのは城壁ではなく、神ご自身であるということです。

 確かに、ソロモンの建てた神殿はいかにも壮麗であり、飛ぶ鳥を落とすほどの威光によって築かれたエルサレムの町は、堅固な城壁に守られていました。けれども、子らは国を二つに割り、北はアッシリアに追い散らされ、南はバビロンによる捕囚の憂き目に遭いました。確かに、神殿の壮麗さや城壁の堅固さが町を守るわけではないと学ばされます。

 今イスラエルは何に依り頼むべきか。もし、主の御手が共にあるのでなければ、主が働いておられるのでなければ、一切は空しいこと、無益なことなのだということ、ゆえに、主の御手が共にあり、主が働いてくださるのであれば、糧を得ることにあくせくせず、安心して眠るがよい(2節)と、詩人は教えているのです。

 箴言10章22節に「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることができない」と記されています。「朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人」(2節)という言葉の背景には、神に背き、神を離れて生きることになった人間に定められた労苦(創世記3章16~19節)があるようです。

 主イエスは、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハネ福音書5章17節)と言われました。父なる神が、私たちを神の安息に導き、平安な恵みを味わわせるためにお働きくださっており、その御心を実現するために主イエスがお働きくださっているということです。

 主の平安と恵みに導きいれられ、そこに留まる事が出来るよう、絶えず主を信頼し、その御言葉に従って歩ませて頂きましょう。

 主よ、私たちが主イエスから離れるなら、実を結ぶことが出来ません。どうか、常に主につながり、その御愛の内に留まることが出来ますように。私たちの内に主の御言葉がいつもあり、祈り願いを聞き届けていただくことが出来ますように。 アーメン