「主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。」 詩編117編2節

 117編は、詩編の中で最も短い詩です。けれども、詠われている内容は、限りなく豊かなものです。ただし、116編19節の後ろにつけて、一つの詩としている写本が多数存在します。

 詩人は、「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ」(1節)と、あらゆる国のあらゆる民族に、主なる神を賛美するように呼びかけます。ここで詩人は、イスラエルのみならず、主はすべての国のすべての民の神であられると考えているわけです。

 神が天地万物の創造主であると信じるならば(創世記1章)、すべてのものが神によって創られたわけですから、当然のことながら、すべての国のすべての民にとって、主こそ神であるということになります。86編9節で「主よ、あなたがお造りになった国々はすべて、御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます」と言っているのは、そのことでした。

 賛美を呼びかける理由は、ここではしかし、神が創造主だからというのではありません。詩人は、冒頭の言葉(2節)で「主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い」と詠っています。「慈しみ(ヘセド)」と「まこと(エメト)」は、イスラエルが繰り返し経験してきた、救いの御業を行われる神のご性格を言い表す用語です。

 イスラエルがエジプトを脱出して奴隷の苦しみから逃れることが出来たのも、40年に及ぶ荒れ野の放浪生活を乗り切ることができたことも、そして、先住の民を追い払って約束の地を手に入れることが出来たのも、父祖アブラハムと契約を結ばれた主なる神の「慈しみとまこと」のゆえでした。

 そしてまた、バビロン捕囚から解放されて帰国を果たすことができたこと、幾多の困難を乗り越えて神殿を建て直すことができたこと、また同様に、城壁を築きなおして国を再興することが出来たのも、主の恵みだったのです。

 しかしながら、それはイスラエルの民にとっては恵みでしょうけれども、エジプトやバビロン、そして、パレスティナから追い出された先住の民にとっては、決して喜べる話ではありません。彼らに向かって勝ち誇ったように、「主を賛美せよ」と言うのであれば、なおさら、主をほめ歌うことなど、出来る相談ではありません。

 137編1~3節に「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々にかけた。わたしたちを捕囚にした民が、歌をうたえと言うから、わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして、『歌って聞かせよ、シオンの歌を』と言うから」とあります。「嘲り」を受けて歌うことなどできません。

 パウロが、「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」(ローマ10章14節)と言っているように、賛美する理由がなくて、主をほめ讃えることは出来ません。主について聞いたこともない者が、主を信じることなど、まずあり得ないことでしょう。

 「主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い」(2節)という言葉で、「とこしえに」ということは、世代を超えるという表現ですし、「わたしたちを超えて」とは、国や民族を超えてということです。

 つまり、主なる神は、あらゆる世代のあらゆる国と民族に、ご自身の慈しみとまことを現されると言っていることになります。それは、実に神が、慈しみに富む、まこと、真実なるお方だからなのです。

 このように賛美の呼びかけがなされているということは、そのために、主なる神の「慈しみとまこと」が広く語り伝えられ、至るところでそれが体験されなければならないということになります。

 そのために、慈しみ深くまことなる主は、使徒たちに聖霊を注ぎ、力を与えて、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、主イエスの証人となるようにされたわけです(使徒言行録1章8節、2章1節以下、9~11節)。

 主イエスによってなされた十字架の贖いの御業によって、ユダヤ人と異邦人の隔ての壁を取り壊し(エフェソ書2章14節)、敵意を滅ぼし(同17節)、両方の者が一つの霊に結ばれて、父なる神に近づくことが出来るようにしてくださったのです(同18節)。そうして、すべての者がアブラハムの子孫とされ、約束のものを相続することが出来るようにされたわけです。

 パウロが、「わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、異邦人がその憐れみのゆえにたたえるようになるためです」(ローマ書15章8,9節)と言います。

 そして、「『すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ』と言われています」(同11節)と、詩編117編1節を引用しつつ、その根拠を示しています。

 マルティン・ルターは、「わたしの見るところでは、使徒言行録はこの詩編あるがゆえに書かれたと言ってよい」と、詩編の注解において語っています。すべての国民が主をたたえるよう、神の愛の福音がエルサレムから、ユダとサマリアの全土、そして地の果てにまで告げ知らされるようにされたのだということでしょう。

 「わたしたちを超えて力強い」神の慈しみとまことに圧倒されて、私たちも、全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝える伝道の働きの一翼をしっかりと担い、私たちの置かれている静岡の町、その周辺に、キリストの福音を告げ知らせましょう。主の手足となって働かせて頂きましょう。

 希望の源であられる父なる神様、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてください。世界中の人々が、慈しみとまことのゆえに神をほめたたえますように。 アーメン