「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように、あなたの慈しみとまことによって。」 詩編115編1節

 115編は、危機にある信徒たちに主に依り頼むよう勧め、祝福を祈る「典礼歌」です。

 2節に「なぜ国々は言うのか、『彼らの神はどこにいる』と」と記されています。この言葉は、バビロンに捕囚となったイスラエルの民に対して、バビロンの人々から浴びせられた問いか、あるいはまた、捕囚から解放されて帰国を果たすことが出来たものの、神殿の再建もエルサレムの再興も果たせずに苦労しているイスラエルの民に対して、周辺諸国の人々から投げかけられた言葉でしょう。

 それは、親切で尋ねているはずもなく、「お前たちの神はどこにいるのか、いるというなら見せてみろ」という、侮辱を含んだ言葉です。あるいは、イスラエルの民の神に対する堅い信仰を揺るがせようとしているのでしょう。

 かつて、アッシリアの王センナケリブが、イスラエルに攻め込み、エルサレムを包囲した際に、エルサレムの民に向かって、ヒゼキヤにだまされるな。彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない。国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したかといって、ヒゼキヤと主なる神を侮辱する言葉を語りました(列王記下18章13節以下、29,32,35節)。

 そしてまた、悲しいことに、私たちの心にも、「神はいるのか。いるというなら、どこにいるのか。神は、私のことを助けてくれるのか」と、疑いの思いが出て来ます。そこで、私を助けてくれる神、私の願いを聞いてくれる神を捜し求めて、右往左往し始めます。

 しかしながら、そこで詩人は、「わたしたちの神は天にいまし、御旨のままにすべてを行われる」(3節)という信仰の宣言をします。神は確かにおられ、ご自身の計画に従い、驚くべき御業を行っておられるのです(111編3,4節)。

 4~7節に「国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことはできない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない」と記されています。

 確かにそうです。人間が造った神の像が人間を助けてくれるはずはありません。神の像を造った人も、それくらいは分かっているでしょう。神の像が人間を助けるはずはありません。

 そう分かっているのに、なぜ像を造るのでしょうか。それは、目で見えるように、手で触れられるように、そして自分の願いを聞いてくれるように、お守りとして神を近くに置いておきたいのでしょう。ということは、神の像ばかりではなく、自分が信頼出来ると考えるものがすべて、偶像になり得ます。お金や地位、権力などが、神にとって代わることがあるわけです。

 そのことについて、詩人は8節で「偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じになる」と言います。天地を造られた神を人が正しく形作ることなど、出来るものではないでしょう。造られた神の像が不真実なものであれば、それを造る者も不真実の中に留まっているということです。

 それゆえ詩人は冒頭の言葉(1節)のとおり、「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように、あなたの慈しみとまことによって」と語ります。詩人は、主なる神が御自分のために驚くべき御業を行われ、それによって、主こそ恵みと慈しみに富むまことの神であることを自ら明らかにして、御名の栄光を現してくださるようにと願っているのです。

 それこそ、恐れと不安の中にいる乏しく弱い人々に対する最も確かな希望であり、平安を与えるものであることを、詩人は知っているのです。ゆえに、「イスラエルよ、主に依り頼め。主は助け、主は盾」(9節)というのです。「天地の造り主、主があなたたちを祝福してくださるように」(15節)と祝福を祈るのです。

 神は、もともと神の民でなく、その憐れみを受けられるはずがなかった私たちを、その深い憐れみによって救い、神の民とされました(第一ペトロ書2章9,10節)。それこそ、私たちのために、神の慈しみとまことによって、御業を行ってくださったのです。主は、主を畏れ、主を礼拝するために奉仕する者の助けとなり、また、祝福をお与え下さいます(9~16節)。

 私たちこそ、希望と平安の源であられる主をたたえましょう。今も、そしてとこしえに。ハレルヤ!

 主よ、御子キリストの贖いのゆえに感謝します。私たちが神の子と呼ばれるためになされた愛の御業のゆえに、御名をほめたたえます。とこしえに御名が崇められますように。常に御業がなされますように。そのことのために、私たちをあなたの器、道具として用いてください。 アーメン