「わたしたちの神、主よ、わたしたちを救い、諸国の中からわたしたちを集めてください。聖なる御名に感謝をささげ、あなたを賛美し、ほめたたえさせてください。」 詩編106編47節

 106編は、先祖たちが犯した罪を離れることが出来ず、約束の地を失うことになったイスラエルの民の「悔い改めの詩」です(6節)。この詩は、直前の105編と対をなすものです。105編が主の驚くべき御業に信頼し、主を賛美しているのに対して、ここでは主の恵みに与ったにも拘わらず、主を信頼できず、背きの道を歩いたことを告白しています。

 かつてエジプトを脱出するとき、モーセの手を通して数々の災いがエジプトにもたらされたのを見(7節、出エジプト記7章以下参照)、エジプトを出るにあたり、追いかけて来たエジプト軍から、葦の海の奇跡によって救われるという経験をしました(8節以下、出エジプト記14章)。荒れ野を旅する間、天からマナが降り、ウズラの肉を食べることもありました(出エジプト記16章)。

 そのように様々な恵みを経験していながら、恩を忘れ、不平を言います(13節)。水がなくなれば、「水を与えよ。渇きで殺すために荒れ野に連れて来たのか」と騒ぎ(14節、出エジプト記17章1節以下)、十戒を授かるためにシナイ山に登ったモーセの帰りが遅いと、「我々に先立って進む神々を造れ」といってアロンに牛の像を造らせます(19節以下、出エジプト記32章)。

 そして、各部族の代表を斥候として約束の地を探りに行かせると、強大な先住民がいてその地に上って行くのは不可能だという報告で、それを聞いた民は、約束の地に行って殺されるくらいなら、エジプトに引き返したほうがよいと言い出す始末です(24節、民数記13,14章)。

 モーセらの執り成しがなければ、イスラエルの民は神の憤りによって、シナイの荒れ野で滅ぼされていたかもしれません(23,30節、出エジプト記32章11節、民数記14章13節以下、25章など)。

 こうして、神の憐れみによって約束の地に入ることは出来ましたが、そこでも、神に背いて自分勝手にカナンの民と混血し、異教の偶像を拝みました(34節以下、士師記2章10節以下、3章7節以下12節以下、4章1節以下など)。エジプトを出て以来、神に背いていない時は殆どなかったというような有様です。

 そして、これらのことが決して過去のことではなかったのです。詩人は、「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し、不正を行い、主に逆らった」(6節)と告白しています。彼らも、同じ罪に手を染めているということです。

 ここで「先祖と同じく」は、「先祖と一緒に」(イム・アボーテーヌー with our fathers)という言葉です。詩人は、罪の力は世代を超え、広く民全体に影響を及ぼすものであることを悟ったのです。

 また「罪を犯し」(ハーターヌー we have sinned)、「不正を行い」(ヘエヴィーヌー we have committed iniquity)、「主に逆らった」(ヒルシャーヌー we have done wickedly「悪をなした」の意)という三つの1人称複数の動詞で、先祖と共に罪を告白し、悔い改めの意を示します。

 自分たちの度重なる罪で神の怒りを買い、神はイスラエルの民を諸国の手に渡されました(39節以下)。神は何度も助け出そうとされたのですが、民自らそれを拒み、ついに国を滅ぼしてしまったのです(43節、列王記下24章20節)。

 このような中で詩人は、この詩を「ハレルヤ」で始め(1節)、「主に感謝せよ」(ホードゥー・ラ・アドナイ)と、感謝を勧めます。それは、主が「恵み深い」(トーブ「善い」の意)お方であり、その「慈しみ」(ヘセド)は「とこしえ」に変わらないものだからです。

 主を「善い方」というのは、25編8節、34編9節、52編11節、73編1節、86編5節、100編5節、107編1節、118編1,29節、119編68節、135編3節、136編1節、145編9節、エレミヤ書33章11節などにもあります。イスラエルの救いに示された永遠の慈しみ.不変の愛を、「善い」(トーブ)と言い表しているわけです。

 2節では、「主の力強い御業を言葉に表し、主への賛美をことごとく告げうる者があろうか」と、1節で求められた賛美を誰がささげられるのかと問います。続く3節で「いかに幸いなことか」(アシュレー)と祝福されるのは、「裁きを守り、どのような時にも恵みの業を果たす人」です。その人こそ、その資格があるというのです。

 ここで、「裁き」は「ミシュパート」(「公正」の意)、「恵みの業」は「ツェダカー」(「正義」の意)という言葉です。97編2節で「正しい(ツェデク)裁き(ミシュパート)が王座の基」と言われていました。王なる主は、正義と公正をもってこの世を統べ治められるということです。それを守り行う者が祝福される所以です。

 そうして、「主よ、あなたが民を喜び迎えられるとき、わたしに御心を留めてください。御救いによってわたしに報いてください。あなたの選ばれた民に対する恵みを見、あなたの国が喜び祝うとき共に喜び祝い、あなたの嗣業の民と共に誇ることができるようにしてください」(4,5節)と求めています。

 これらの言葉によって、自分たちも父祖たちも、神との契約を蔑ろにし、慈しみ深き神の御業に感謝せず、神に背いて罪を犯したことを、悔い改めているのです。

 だから冒頭の言葉(47節)で「わたしたちを救い、諸国の中からわたしたちを集めてください」といって、捕囚の地からエルサレムに戻れるように願い、「聖なる御名に感謝をささげ、あなたを賛美し、ほめたたえさせてください」といって、もう一度神を礼拝することが出来るよう、祈り求めているのです。

 主なる神はこの祈りに答え、まことの神を礼拝する新しいイスラエルを再創造されました。48節は、第4巻(90~106編)の巻末であることを示すために、後から付加された言葉ですが、主は確かに、詩人の願いを聞き、イスラエルの国を再興させ、彼らに「ハレルヤ」と歌わせてくださったのです(エズラ記6章19節以下、ネヘミヤ記8章9節以下、12節)。

 私たちも、御子イエスに贖われ、その救いに与った者として、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を、絶えず主にささげましょう。

 主よ、あなたの驚くべき御業に目が開かれ、御言葉を信じて聖なる御名に感謝し、常に賛美をささげることが出来ますように。バビロンの捕囚の縄目から解放して、主を礼拝する民を創造されたように、困難な生活を余儀なくされている人々に、新しい恵みの世界が創造されますように。 アーメン