「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」 詩編90編12節

 90編から、第4巻(90~106編)になります。

 90編は、人の命のはかなさ、それは人の罪に対する神の憤りのゆえであることを知り、神の救いを求める「わたしたち」会衆の祈りの詩です。詩人はまず、神の永遠性を詠い(1,2節)、人の命のはかなさに触れます(3~6節)。この箇所は、キリスト教の葬儀において、必ずと言ってよいほどよく読まれます。

 3節の「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります」という言葉で、塵にまで返される「人」(エノーシュ)とは、弱い存在としての人間を意味します。アダムの3男セトは、生まれた男の子をエノシュと名づけました(創世記4章26節)。「塵」(ダッカー)には「打ち砕かれた」(詩編34編19節、イザヤ書57章15節)という意味もあります。

 「主の御名を呼び始めたのは、この(エノシュが生まれた)時代のことである」(創世記4章26節)とは、アダムの長男カインが弟アベルを殺して(同8節)「主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」(同16節)のとは対照的に、主なる神のみ前に敬虔な信仰が回復されたことを示しています。

 「人の子」(ブネイ・アーダーム=「アダムの子」)は、土(アダマー)から造られました(創世記2章7節)。この表現は、「土(アダマー)」から生まれた「人(アダム)」がやがて土に返る、人間のはかなさを示しています。

 人の歴史は、千年を単位として測る長さであったとしても、神の目には一日にも満たない夜の一時で(4節、第二ペトロ書3章8節)、夜の夢のようなものであり(5節)、「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」(6節、イザヤ40章6節以下)。

 しかしながら、詩人が嘆いているのは、一般論としての人生のはかなさなどではありません。彼らが「得るところは労苦と災い」(10節)と語っているその原因が、神の怒り、憤りにあるということです(7~12節)。70年、80年という人生、罪人として「労苦と災い」に示される神の御怒りの内を歩み、「人の子よ帰れ」の声で塵に返される、その儚さを嘆くのです。

 詩人は今、創世記3章17節以下に記されている神の言葉を思い起こさせる現実の中に置かれているようです。そしてそれは、個人的なものではなく、全人類が置かれている嘆かわしい状況なのです。

 そこで、「主よ、帰ってきてください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください」(13節)という祈りの言葉を発しているわけです。「いつまで」と問うということは、神の憤りによる裁きの時間が長く続いているということです。

 こうした背景には、やはりバビロン捕囚の苦しみがあるということなのでしょう。だから、第3巻最後の89編に続く、第4巻の初めに、90編の詩が置かれることになったのでしょう。

 表題には、「神の人モーセの詩」とあります。「モーセの詩」と呼ばれるのは、90編だけです。明らかに時代状況が違いますが、神の人モーセがイスラエルの民のために、繰り返し執り成しの祈りをささげていたことを思い出します。そして、モーセが同胞を救い出すために、神に召されてエジプトに遣わされたのは、80歳のときでした(出エジプト記7章7節)。

 ファラオの娘に拾われ、王宮で育てられたモーセは(同2章1節以下、10節)、成人して同胞が重労働に服し、エジプト人に苦しめられているのを見て血気に逸り、そのエジプト人を打ち殺しました(同2章11節以下)。

 その後、モーセはエジプトからミディアンの地に逃れ(同2章15節)、そこでミディアンの祭司レウエルの娘ツィポラと結婚し、羊の群れを飼う者となりました(同2章21節、3章1節)。何十年もの間、エジプトで奴隷をしている同胞のことを思いながら、荒れ野で羊を飼っていたモーセの思いを、この詩に重ね合わせたということでしょうか。

 神は、モーセを遣わしてイスラエルの民をエジプトから救い出されたように、ペルシアの王キュロスによって、バビロンからも救い出してくださいました(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。彼らに、喜びの歌を歌わせられたのです(14,15節)。

 詩人は、冒頭の言葉(12節)のとおり、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と求めています。「生涯の日を正しく数える」とは、人間の命が有限のものであること、それを定められたのが神であられること、即ち、人間は神の被造物であるということを示しています。

 また、「知恵ある心」とは、箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」とあるように、「主を畏れる心」ということが出来ます。つまり、神に造られたものとして、神を畏れ、謙虚に神に聴き従う心を求めているのです。

 確かに私たちは有限の存在です。一回限りの人生、私たちを創造し、慈しみの御手で守り導いて下さる主を信じ、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝して歩みましょう。そして、やがて召される日、「ハレルヤ!主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」(1節)と賛美しつつ、天に携え上げられたいと思います。

 主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が生み出される前から、世々とこしえにあなたは神であられます。私たちに主を畏れ、その御言葉に聴き従う従順な心をお与えください。あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことが出来ますように。 アーメン