「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。」 詩編86編11節

 86編は、神に苦難からの救いを求める「祈りの詩」です。

 表題に「祈り、ダビデの詩」とありますが、原文には「詩」(ミズモール)という言葉はありません。つまり、「祈り、ダビデの」(テフィラー・レ・ダビード)と記されているのです。

  第2巻(42~72編)の最後、72編20節に「エッサイの子ダビデの祈りの終り」と記されていましたが、第3巻(73~89編)で、「アサフの詩」(73~83編)に続く「コラの子の詩」(84~88編)の中に、「ダビデの祈り」の詩が一つぽつんと置かれるかたちになり、異彩を放っています。

 詩人の「わたし」(1節以下)が主なる神を「あなた」(2節)と呼んで、一対一の談判を行っています。ここに、詩人が救いを求めているのは、14節に「傲慢な者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者の一党がわたしの命を求めています」とあるように、彼を苦しめる敵の存在があるのです。

 1節に「わたしは貧しく、身を屈めています」とありますが、これは40編18節、70編6節にも出て来ました。35章10節では「貧しく乏しい人」と訳されています。「身を屈める」というのは「貧窮している」(エブヨーン)という言葉で、類義語を並べて、苦しめる敵を前に、自分で自分を守るすべがないこと、それゆえに一切を主の御手に委ねるという表現です。

 だから2節に「わたしの魂をお守りください。わたしはあなたの慈しみに生きる者。あなたの僕をお救いください。あなたはわたしの神、わたしはあなたに依り頼む者」と祈り求めているわけです。ここで、「僕」(エベド)は、主人に仕える奴隷です。

 「主よ」という呼びかけの内、3,4,5,8,9,12,15節は、「主人」という意味の「アドーン」に、「わたしの」という意味の接尾辞が付けられていて、「わたしの主よ」と訳すことも出来ます。「あなたの僕」に対応するかたちで、7度「わたしのご主人様」と呼びかけているということです。それ以外は、「ヤハウェ」を「主」と訳しています(1,6,11,17節)。

 詩人は、この祈りを主なる神が聞いてくださると信じています(5,7節)。それは、主が恵み深く、豊かな慈しみをお与えになる方だからです(5,15節)。そして、主のほかに神はおられないのです(8,10節)。

 詩人が主の豊かな恵みと慈しみとに目を留めたとき、自分の信仰の有様を省みました。そこで、冒頭の言葉(11節)のとおり、「主よ、あなたの道を教えてください。わたしはあなたのまことの中を歩みます」と言います。

 ここで「まこと」は「エメト(真理、真実、忠実さ、堅固の意)」という言葉です。「あなたのエメトの中を歩きます」とは、あなたの真実な道を歩きますということで、あなたの真実に応えて誠実に、忠実に歩きますという意味といってよいでしょう。

 そのために、「一筋の心をわたしにお与えください」と求めます。直訳は「わたしの心を一つにしてください」となります。あれこれと千々に乱れている心を一つに結合してくださいという意味と取るのが一番スムーズだと思います。

 新共同訳の訳を生かして、「あなた一筋の心にしてください」といってもよいでしょう。岩波訳は「わが心を集中させてください。あなたの名を畏れることに」、聖書協会共同訳(2018年版)は「私の思いを一つにし、あなたの名を畏れる者にしてください」と訳しています。

 主なる神の真実、その慈しみは計り知れません。というのは、深い陰府から詩人の魂が救い出されたのです(13節)。死の淵から神に引き上げられ、癒され、救われたということでしょう。

 そういう経験をしながらも、なお様々な出来事、特に自分を苦しめる事態に遭遇すると、主に信頼し切ることが出来ず、思い煩ってしまうのです。そして自分を支える様々な助けが欲しくなり、あちらこちらを見回している自分を見出すのです。そうすると、「深い陰府」とは、必ずしも死の淵などではなく、不信仰な私たちの心の有様を表しているとも考えられます。

 それにも拘らず、主なる神の慈しみに圧倒された、満たされたということでしょう。それは、決して詩人の努力のゆえなどではなく、まさに主の深い憐れみだったのです。だから、「主よ、わたしの神よ、心を尽くしてあなたに感謝をささげ、とこしえに御名を尊びます」(12節)というのです。

 そう考えれば、14節の「傲慢な者」、「暴虐な者の一党」は、敵を指すだけでなく、自分の心の深みにあるものとも思えます。私たちの心が傲慢になり、また荒れすさむ時、神を前に置いていない状態になります。自分で自分の前に主を置いたなどと考えると、すぐにそこに傲慢な思いが首をもたげてきます。

 私が目の前に主なる神を見ることが出来るのは、主が私を憐れみ、ご自身の御顔を私に向けてくださっているから、そして、主の方から近づいてくださったからです。私が不真実なときでも、主は絶えず真実です(ローマ書3章3,4節)。この主の真実に答える誠実さとは、主を信頼する信仰が心に満ちているということです。

 絶えず主を畏れ敬うことが出来るように、主一筋の心にしていただきましょう。

 主よ、あなたの道を教えてください。私たちはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことが出来ますように、主を一筋に求め、信頼する心を私たちにお与えください。絶えず御名を崇め、心を尽くして感謝をささげることが出来ますように。 アーメン