「わたしは神が宣言されるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かな振る舞いに戻らないように。」 詩編85編9節

 85編は、神に救いを求める「祈りの詩」です。

 2節に「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕らわれ人を連れ帰ってくださいました」と言います。ここで、カナンの地を「御自分の地」(アルツェハー:直訳「あなたの地」)というのは、サムエル記下7章23節とここだけに出る珍しい表現です。

 勿論、すべては神の被造物であり、主なる神こそ天地万物の真の所有者です。ここで「御自分の地をお望みになり」というのは、イスラエルに再び嗣業の地を与えることを望まれたという表現でしょう。

 イスラエルが捕囚の地から戻ることが出来たのは、ただ主の憐れみのゆえでした。3節の「御自分の民の罪を赦し、彼らの咎をすべて覆ってくださいました」という言葉が、それを示しています。

 背きの罪で神の怒りを買い(列王記下17章、同24章20節)、紀元前587年にエルサレムの都がバビロン軍の手に落ち、ゼデキヤ王をはじめ多くの民が捕囚とされたとき(同15章1節以下)、再びエルサレムに戻る日が来るとはとても思えなかったでしょう。しかし、50年後(紀元前538年)、それが現実となったのです。

 ただ、エルサレムに戻って来れば、以前のような生活が直ぐに営めるようになったということではありません。ペルシア王キュロスによってバビロンから解放され、エルサレムに戻ることが出来たものの、町は破壊され、城壁も崩れたままでした(ネヘミヤ記1章3節)。

 神殿再建、城壁再建を妨害する敵が、国の内外に存在していました(エズラ記4章、ネヘミヤ記3章33節以下、6章)。旱魃による飢饉にも見舞われました(ネヘミヤ記5章3節)。その上、課せられた重税によって打ちのめされました(同4節)。

 エズラの帰還は紀元前458年、ネヘミヤは紀元前445年とされていますが、多くの旧約学者がエズラの帰還を、ネヘミヤよりも遅い紀元前398年と考えています。いずれにせよ、バビロンからエルサレムに戻って来て100年経っても、帰還民の生活は上述のような有様だったのです。

 4節に「怒りをことごとく取り去り、激しい憤りを静められました」と語られているのに、続く5節で「わたしたちの救いの神よ、わたしたちのもとにお帰りください。わたしたちのための苦悩を静めてください」と祈り、6節には「あなたはとこしえにわたしたちを怒り、その怒りを代々に及ぼされるのですか」と尋ねる言葉が記されています。

 上記のような事態の中で、エルサレムにおける生活について、私たちをここで苦しませるために連れて来たのか、神はいつまでお怒りになるのか、こんなことならバビロンにいる方がましだったという嘆きや不満の声が上がるのは、想像に難くないところです(出エジプト記14章11,12節、16章3節、民数記11章、14章1~4節など参照)。

 しかし、そこに神を畏れ、その御声を聞く人々がいました。冒頭の言葉(9節)にあるように、彼らは主が「平和(シャローム)」を宣言される声を聞いています。「平和」を「救い、幸福」と訳してもよいでしょう。神の御声を聞いている人々は、自分の置かれている環境は、厳しいものがあっても、しかしそこに神の救い、幸福を見ることが出来たのです。

 「主を畏れる人に救いは近く、栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう」(10節)と言い、さらに、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします」(11~13節)と語ります。

 9節以下の段落の動詞は殆ど未完了形なので、未来に成就されるものとして未来形のように訳されます。ただ11節の「出会う」(パーガシュ)、「口づけする」(ナーシャク)、12節の「注がれる」(シャーカフ:「見下ろす」という語)は完了形です。「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし」たことにより、この地に平和が実現すると信じるといった表現です。

 主を畏れる詩人は、主なる神のうちに、「慈しみ(ヘセド)」と「まこと(エメト)」が一つとなっていること、その恵みが私たちに「正義(ツェデク)」と「平和(シャローム)」として与えられたことを知りました。

 つまり、神が慈しみとまことをもって私たちとの関係を正しくし、正しい秩序をもたらしてくださること、そこに神の平和、平安が支配するということを、信仰によって受け止めているのです。それが、詩人を始め、イスラエルの人々が依って立つところ、主に助けを祈り求める根拠でした。

 「主の慈しみに生きる人々」(ハーシード)は、口語訳、新改訳で「聖徒(たち)」、岩波訳では「彼に忠実な者たち」、聖書協会共同訳(2018年版)でも「忠実な人たち」と訳されています。主に選ばれた「聖徒」とは、主の召しに忠実な者であり、それゆえ主の慈しみに生きる者とされると考えることが出来ます。

 2節にいう、主がお望みになる「御自分の地」とは、そのように主を畏れ、主の御言葉を聴き従う人々が住む地であり、そこで私たちが正義と平和の恵みに与るようにと、私たちを招いてくださっているのです。

 招きに応え、主を畏れ、日々主の御言葉に耳を傾けましょう。そこで主の慈しみとまことに触れ、正義と平和に与りましょう。  

 主よ、御子キリストの贖いにより、私たちの罪を赦し、すべての咎を覆ってくださいました。御前に謙り、御声に聴き従います。今、苦しみの中にある多くの人々に、必ずよいものをお与えくださり、私たちの嗣業の地は豊かな実りをもたらすことを信じます。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン