「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」 詩編84編7節

 84編は、万軍の主の神殿での礼拝を慕い求める詩人の「神をたたえる歌」です。

 表題に「コラの子の詩」とありますが、コラはレビ族のケハト家に属し、モーセやアロンの従兄弟にあたります(出エジプト記6章18節以下、21節参照)。ダビデに神殿の詠唱者として選ばれたヘマンは、コラの子孫です(歴代誌上6章18節以下、22節)。詩編の中で42~49,84,85,87,88編が「コラの子の詩」とされています。

 「万軍の主」(2,4,9,13節)と4度呼ばれる主なる神の神殿は、シオンの山に建てられています(8節)。そこで、主を慕い求める人は、巡礼をいたします。「祭壇に、鳥は住みかを作り」(4節)と、主にまみえる場所がいかに望ましい場所であるかということを語ります。

 5,6節に「いかに幸いなことでしょう」(アシュレイ)という言葉を重ねて、神の宮における礼拝に与る者と(5節)、神を慕って巡礼の旅に出る者(6節以下)を讃えています。そして、詩の最後にそれをまとめて、「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう」と、三度目のアシュレイを語ります。

 冒頭の言葉(7節)で「嘆きの谷」(新改訳「涙の谷」)というところを、口語訳では「バカの谷」と訳しています。実は、「嘆き」と訳されているのが「バカ(bk’)」という言葉で、それを口語訳は固有名詞と考えたのです。英語訳のKJV、RSVなども「バカの谷(valley of Baca)」としています。

 ところが、「バカ」は「嘆き、涙」という意味の言葉ではありません。これは「バルサムの木」のことです。その幹からミルクのような樹液が出、それは乳香として用いられます。バルサムの木は、乾燥した高地によく生息しているそうです。

 サムエル記下5章23節に「バルサムの茂み」(ベカイーム)という言葉があり、レファイムの谷に陣取ったペリシテ軍を迎え撃つため、ダビデの軍勢はその茂みに身を隠して、待ち伏せ攻撃をしました(同24節)。その場所は、エルサレムの南にあるヒンノムの谷の北部の谷のあたりであろうと想定されています。

 それが「嘆きの谷」と言われるのは、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)の「涙」(クラウスモーン:weeping)という訳を参考にしたからでしょう。「涙、嘆き」は、ヘブライ語で「ベケー(bkh)」といい、「バカ(bk’)」によく似ているということもあります。

 ヒンノムの谷は、今日アラビア語でワーディ・エル・ラバビと言われます。ワーディは、雨が降ったときだけ水が流れ、いつもは川の水が全く流れていない涸れた川です。巡礼の旅人が水を求めて谷底に降りても、水が得られません。まさに、旅人を嘆かせる嘆きの谷なのです。

 しかし、一旦雨が降れば、そこに水が流れ、さまざまな命が芽吹きます。嘆きの谷が泉となるのは、恵みの雨が降ったからです。長旅の渇きも、泉の水で癒されます。人生の旅路において、様々な嘆きの谷を通過した人々が、神の宮にやって来て主の恵みに触れたとき、喜びが泉となって内から湧き上がります。

 「いよいよ力を増して進み」(8節)とは、神の宮で新しい恵みを受けた旅人が、家を出たときよりも元気になった、益々強くなったというような表現です。ところが原文は、「力から力へと進み」(メーハイル・エルハーイル:口語訳、新改訳、岩波訳参照)という言葉です。自分の力ではなく、神よりの新しい力をうけてという意味でしょう。

 7節後半の「雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」という言葉や、8節後半の「ついに、シオンで神に見えるでしょう」という言葉などから、その力とは、単に体力や気力というのではなく、新約の時代において、あのペンテコステに降り注いだ聖霊によって与えられる「力」(使徒言行録1章8節、2章1節以下)を指しているように思われます。

 イザヤ書40章31節に「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」という預言があります。鷲は、自分で羽ばたいて空高く上っていくのではありません。翼を大きく張り広げ、上昇気流に乗って舞い上がるのです。

 ヘブライ語で風と霊は同じ言葉(ルーアッハ)ですから、鷲を高く舞い上がらせる風の力という表現で、主に望みを置く人が得る新しい力とは、霊の力であるということを示しています。また、出エジプト記19章4節に、「あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきた」という言葉があり、神の助けを「鷲の翼」と表現しています。

 そのことから、イザヤの預言は、バビロンに連れて行かれた捕囚民に与えられた、エルサレムに帰ることが出来るという約束の言葉とみることが出来ます。神の助けなしに、バビロンから自由になれるとは考えられません。だからこそ、主を待ち望むのです。

 主イエスが仮庵祭の大切な日に立ち上がって、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ福音書7章37,38節)と言われましたが、これも同様です。

 というのは、湧き上がり、流れ出した生きた水の川(複数形:rivers)について、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている御霊について言われたのである」と説明されているからです(同39節)。

 どんなときにも、私たちの内に、私たちと共にいてくださる聖霊なる神に満たされてその恵みと力に与り、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌いましょう。

 主よ、弱く貧しい私たちを顧み、絶えず新しい恵みに与らせてくださることを、心から感謝します。涙の谷を通ることがあっても、そこを恵みの雨に与る場所としてくださる主を仰ぎます。キリストの言葉を心に豊かに宿らせ、御霊に満たされて、心から御名をほめ讃えさせてください。主の御名は賞むべきかな。 アーメン