「わたしは逆らう者の角をことごとく折り、従う者の角を高く上げる。」 詩編75編11節

 75編は、奢り高ぶる者を裁かれる神に対する「賛美の歌」です。

 まず、2節に神への感謝の言葉があります。それは、神が時を選び、公平な裁きを行うという3節以下の言葉に基づいています。そこでは、奢り高ぶり、神に逆らう者たちに対する警告が語られます(5,6節)。

 それを受けて詩人は、高ぶる者に神が裁きを行われること(8節)、神に逆らう者に裁きの杯を飲ませられることを語ります(9節)。そして、神は逆らう者を退けられ、従う者を高められると、ほめ歌を歌うことを約束する言葉(10,11節)で詩を閉じています。

 ここで、「奢る者」(5節)、「逆らう者」(9,11節)とは、ヒゼキヤ王の代に北イスラエルを滅ぼし、南ユダに攻め寄せてきたアッシリアの王センナケリブのことでしょうか。あるいは、南ユダ王国を滅ぼしたバビロン帝国の王ネブカドネツァルのことでしょうか。

 アッシリア王センナケリブはラブ・シャケをエルサレムに遣わし(列王記下18章17節)、「ヒゼキヤにだまされるな、彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない」(同29節)、「国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すというのか」(同35節)と告げさせました。

 ヒゼキヤは衣を裂き、粗布をまとって主に祈りをささげました(同19章1節以下)。主は祈りを聞かれ、預言者イザヤを通してアッシリアの王に、「お前がわたしに向かって怒りに震え、その奢りがわたしの耳にまで上ってきたために、わたしはお前の鼻を鉤にかけ、口にくつわをはめ、お前が来た道を通って帰って行くようにする」(同28節)と語られ、その通りになりました(同35節以下)。

 それを見て、「あなたに感謝をささげます」(2節)と賛美しているのでしょう。「御名はわたしたちの近くにいまし」(2節)は、「御名」が神ご自身のことを示しているので、神が近くにおられて、自分たちを守ってくださったということです。

 34編19節に「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」とあるように、謙って神を求める者に神は近くおられ、救いを賜るのです(73編23節、85編10節、119編151節なども参照)。

 また、バビロニア王ネブカドネツァルは、神に夢を見せられ、ダニエルに夢解きを願いました(ダニエル書4章1節以下)。それは、ネブカドネツァルに対する警告でした。ダニエルは、「王様、どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう」(同24節)と告げました。

 けれども、ネブカドネツァルはその忠告を忘れ、警告どおりのことが彼の身に起こり(同25節)、人間社会から追放されて野の獣と共に住み、牛のように草を食らい。七つの時、則ち、神がよしとされるまでそこで過ごさせられます(同22,29,30節)。

 後に、本心に立ち返ったネブカドネツァルは、「わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、奢る者を倒される」(同34節)と語りました。まさに、驕り高ぶる者に裁きが臨んだわけで、それを通して、ネブカドネツァルは悔い改めへと導かれたのです。

 その子、ベルシャツァル王が千人の貴族を招いて大宴会を開いていたとき、エルサレム神殿から奪って来た金銀の祭具に酒をついで飲み、木や石の神々をほめたたえました(同5章1節以下、4節)。つまり、イスラエルを滅ぼしたバビロン帝国の神々を賛美したわけです。そのとき、人の手の指が現れ、壁に「メネ、メネ、テケル、そしてパルシン」(同5節以下、25節)という文字を記します。

 この言葉を解釈したダニエルは、「父王様は傲慢になり、頑なに尊大に振舞ったので、王位を追われ、栄光は奪われました。・・ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存知でありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった」(同20,22節)と言っています。

 その結果、その夜、王は殺され、やがてバビロン帝国は分裂して、メディアとペルシアに与えられることになるのです(同28,30節)。そして、イスラエルの民はペルシャ帝国の王キュロスによって捕囚から解放されます(紀元前538年)。

 イスラエルの民は、王国が滅亡し、異国の地で奴隷としての苦しみを味いながら、それまでの生活を悔い改めて神の御前に謙り、御言葉に従って神を礼拝することを学んだのです。ですから、帰国した民が先ず行ったのは、エルサレムの神殿を再建し、そこに祭司、レビ人など宗教指導者を配置して神を礼拝することでした(エズラ記2章以下、6章14,15節など)。

 冒頭の言葉(11節)で「逆らう者の角をことごとく折り、従う者の角を高く上げる」と言われます。「角」は力や権威の象徴です。奢る者は、その力を誇示して神に背きます。5節の「角をそびやかす」は、神への反抗を指すのです。神は、「必ず時を選び、公平な裁きを行う」(3節)と言われていたとおり、逆らう者、奢る者を退かせ、神の御前に謙り、従う者を高く上げてくださるのです。

 使徒ペトロも、箴言3章34節の言葉を引用しつつ、「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ書5章5,6節)と語っています。

 旧新約を貫いて、公平な裁きを行ってその義をお示しになる神の御前に謙り、御言葉に聴き従う者となりましょう。互いに謙遜を身につけ、愛し合いましょう。  

 あらゆる恵みの源であられる神よ、あなたは、地上にある間、様々な悩み苦しみの下で、私たちを強め、力づけ、揺らぐことがない完全な者となるように整えてくださいます。今日、自然災害に見舞われたり、戦乱に見舞われ、避難生活を余儀なくされている方々に近くいまし、彼らの角を高く上げてくださり、栄光を表してください。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン