「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」 詩編58編12節

 58編は、神に公正な政治を求める祈りです。それは、正しい政治を行い、公平な裁判を行うべき権力者が、不正な政治を行い、不法を量り売りしているからです(2,3節)。

 彼らは、神に逆らい、偽りを語ります(4節)。詩人は、蛇使いでさえコントロールすることが出来ない毒蛇になぞらえ、誰の言葉にも耳を閉ざし、自分の思いのままに振る舞っていると断じます(5,6節)。まるで、昨今の我が国の政府与党の政権・議会運営のようです。

 2節冒頭で「しかし」と訳されているのは「エーレム」という言葉で、「沈黙、物言わぬ者」と訳されます。56編1節の表題にある「エーレム」は、「沈黙」と訳されています。2節を直訳すれば、「確かに沈黙よ、お前たちは正しく語り」といった言葉になり、意味不明です。そこで新共同訳は、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)を参考にして「しかし」と訳しています。

 また、口語訳、新改訳、そして岩波訳は、それとは違って「エレム」を「エリーム」(神々:エル(神)の複数形)と読み替える異読を採用し、岩波訳はそのまま「神々」とし、今年刊行された聖書協会共同訳もそう訳しています。口語訳、新改訳は「力ある者」と意訳しています。世の権力者、支配者たちが、神々の名を用いて不正を行っているという解釈です。

 不法がはびこり、それを公正に裁く者がいない、そんなことがあってもよいのかと、詩人はここで、不正を働く者も、それを公正に裁く責任を放棄してしまっている権力者も、共に断罪しているわけです。

 7節以下に①「彼らの口から歯を抜き去ってくださるように」、②「主が獅子の牙を折ってくださるように」、③「水のように捨てられ、流れ去るがよい」、④「神の矢に射られて衰え果て」、⑤「なめくじのように溶け」、⑥「太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい」、⑦「生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい」と記されています。

 詩人はここに、七つの言葉をもって、完全な裁きと呪いを語っているのです。

 詩人は、こんなに不法がはびこるようでは、神も仏もあるものか、とは言いません。詩人は、冒頭の言葉(12節)のとおり、「神はいます。神はこの地を裁かれる」と語ります。そうです、神はおられます。神がこの地上を裁かれます。

 不法がはびこるから神がおられないということであれば、この世に救いはありません。不法があり、それによって苦しめられている人があるからこそ、神が必要です。そして、神がおられればこそ、救いの道、命の道、義の道が開かれるのです。

 神はこの地を裁かれます。不義をそのまま見過ごしにされることはありません。けれども、その裁きは、詩人が期待した通りではないかもしれません。「神に従う人はこの報復を見て喜び、神に逆らう者の血で足を洗うであろう」とは、敵を完全に殲滅し、その屍を踏み越えて進む兵士のイメージでしょう。

 けれども、もし神が罪を犯す者を徹底的に殺し、滅ぼされるならば、誰が地上に生き残れるでしょうか。「だれもかれも背き去った。皆ともに汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」(14編3節、ローマ書3章10節以下)と言われている通りです。

 後に詩編の編者が、「『滅ぼさないでください』に合わせて」という表題をつけました。上述のように、不法をなし、それを公正に裁こうとしない悪しき権力者を完全に滅ぼして欲しいと願っているような内容から考えれば、矛盾した曲名です。偶然、「滅ぼして欲しい」という歌を、「滅ぼさないでください」という曲で歌うことにしただけということではないと思います。

 確かに、悪は滅ぼされる必要があります。そうして、義と平和が支配する世界にならなければなりません。しかし、神はその裁きを、不法をなす者の頭に下したのではありませんでした。

 十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ福音書23章34節)と祈られた主イエスの執り成しを受け、神は罪人の私たちを御子キリストの贖いによって赦し、その血によって私たちの足を洗ってくださいました。十字架の贖いを通して、すべての者を赦し、清める救いの道を開かれたのです。

 主イエスを信じる者はだれでも、神の子どもとなる資格が与えられます(ヨハネ福音書1章12節)。誰もが、主イエスの道を通って父なる神のもとに行くことが出来るようにしてくださったのです(同14章6節)。神は私たちすべての者を、この救いに招いてくださったのです。

 このイエスの救いの前には、ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。皆、キリスト・イエスにおいてひとりなのです。それは、信仰によるアブラハムの子孫、約束による神の相続人となることです(エフェソ書3章28,29節)。

 神の憐れみにより、主イエスを信じて救いの恵みに与った者として、命の道、真理の道を主イエスと共に歩み、家族に、周りの人々にこの恵みを告げ知らせて参りましょう。

 主よ、はかり知ることの出来ない愛と恵みに感謝致します。神に愛されている者として、家族同士、隣人同士、互いに赦し合い、愛し合い、支え合い、祈り合って生活することが出来ますように。主の御名が崇められますように。 アーメン