「目覚めよ、わたしの誉れよ。目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。」 詩編57編9節

 57編は、6節と12節がリフレイン(折り返し)の役割を果たしているので、2節以下と7節以下の2部構成といえます。その内容は、第一部(6節まで)が、神の憐れみを願い、災いから救ってくださいという祈り、そして第二部(7節以下)は、願いを聞き届けてくださった神への感謝と賛美です。

 表題に「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」と記されています。サムエル記上22章1節以下の状況でしょうか。第二部の感謝と賛美から、同24章1節以下のエン・ゲディの洞窟におけるダビデとサウルをめぐる出来事が、その背景になっているようにも思われます。

 詩人の魂は敵に囲まれてうなだれ、屈み込まされていました(5,7節)。けれども、詩人は、神が祈りに答えてくださることを知っています。だからこそ、うなだれ、屈み込みながらも、さらに神の憐れみと救いを祈り願っているのです。

 詩人は、「いと高き神を呼び」(3節)、「天から遣わしてください、神よ、遣わしてください、慈しみとまことを」(4節)と求めます。詩人が神に遣わしてくださるよう願った「慈しみとまこと」とは、神のご本性といってよいでしょう。

 「慈しみ」(ヘセド)は神の変わらないご愛、「まこと」(エメト)は神の真実、真理を示すものです。詩人は、天に座しておられる神が、全権大使として「慈しみとまこと」を派遣してくださるようにと告げて、神ご自身による守り、救いを求めているのです。

 そして、屈み込んでいる詩人の目に、詩人を陥れる罠を仕掛け、落とし穴を掘った敵が、自らそこに落ち込んでいるのが見えました(7節)。つまり、詩人の願いに神が応えてくださったということでしょう。

 ダビデの経験から言えば、それは、ダビデが隠れていた洞窟にサウルが用足しに入ってきて、逆にサウルに手をかける絶好の機会となったというところでしょう(サムエル記上24章4節以下)。

 しかるにダビデは、油注がれた方に手をかけることを、主は決して許されないといって(同7節)、サウルに対する謀反の思いはないことを明らかにし(同12,13節)、それを受けてサウルは、「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」(同21節)と応じました。

 詩人は、これまでそのような経験を積み重ねてきたのです。そこで、「わたしは心を確かにします」(ナーコーン・リッビー、8節)と2度重ねて語ります。どんな境遇におかれても、また、そこに何があっても、神を信じて立ち上がろうというわけです。

 冒頭の言葉(9節)のとおり、「目覚めよ、わたしの誉れよ。目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう」と語ります。ここで、「誉れ」(カーボード)という言葉を、口語訳は「魂」、新改訳も「たましい」と訳しています。「誉れ」は、6,12節の「栄光」と同じ言葉です。

 8節で「心を確かにして、あなたに賛美の歌をうたいます」と言ったあとに、「わたしの栄光よ」と語るはずはなかろうと考えて、口語訳などは「誉れ」を「肝臓、心=魂」(カーベード)と読み替えたのでしょう。あるいは、「誉れ」を自尊心と考えて、さらに「魂」と意訳したのでしょうか。因みに、2,5,7節の「魂」は「ネフェシュ」、8節の「心」は「レーブ」という言葉です。

 原文の異読には、「カーボード」と文字の形がよく似ている「キノール」をあてるものがあるようです。これは、このあとに出て来る「琴」という言葉です。つまり、「目覚めよ、わたしの琴よ、目覚めよ、竪琴よ、琴よ」という文章になるわけです。

 これらの訳語の中で「誉れ」と読むのが一番理解し難いものです。「魂」、「琴」などと記されていたものが「誉れ」と書き換えられる可能性と、「誉れ」と記されていたものが「琴」、「魂」と読み替えられる可能性を比較すれば、後者の確率が確実に高いと言わざるを得ません。難解な言葉を理解し易い言葉に書き換えると考えられるからです。だから、新共同訳は「誉れ」を選択したのでしょう。

 そしてこれは、敵に苦しめられ、屈み込んでいた詩人が、神によってもう一度奮い立とう、神に与えられた栄光を取り戻そうという意味に取ることが出来るのではないでしょうか。そのために、竪琴をかき鳴らして、「曙を呼び覚まそう」とうたいます。

 まだ夜明け前で、全く光を見ることが出来ません。けれども、必ず夜は明け、朝の光が輝くようになります。夜明けをじっと待つというのではなく、賛美によって心に夜明けの光をもたらしたい、神を仰ぎ、新しい朝の恵みに与りたいと願っているのでしょう。

 詩人は、竪琴、琴に代表される楽器をもって、そして信仰に目覚めた自分のすべて、声のかぎり歌い、手を打ち鳴らし、踊り、そのようにして体中で主を迎えようとしているのです。ちょうど、ダビデが神の箱をエルサレムに迎えたときのように(サムエル記下6章12節以下)。

 主なる神は、イスラエルの賛美を住まいとされ(22編4節)、賛美の中に栄光をもって臨まれます(歴代誌下5章13,14節)。「あなたの慈しみは大きく、天に満ち、あなたのまことは大きく、雲を覆います」(11節)という賛美は、祈りと願いに答えてくださる神に対する信仰の賛美であり、また、感謝の賛美です。

 私たちもこの詩人の信仰に学び、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝し、賛美する信仰で歩みましょう。それこそ、神が主キリスト・イエスにあって、私たちに望んでおられることだからです(第一テサロニケ書5章16~18節)。

 主なる神よ、天の上に高く今し、栄光を全地に輝かせてください。自然災害で不安と恐れに包まれている東北・関東の人々を、あなたの慈しみとまことで覆ってください。平和と安全が脅かされ、将来に希望を持つことが出来ないでいる人々に、あなたの慈しみとまことを遣わし、真の平安と希望を授けてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン