「あなたの重荷を主に委ねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」 詩編55編23節

 55編は、都にはびこる不法と争い、災いと労苦、搾取と詐欺(10~12節)に悩む詩人が、神に救いを求める祈りです。表題に「マスキール」(1節:「教訓」の意)とあり、そのような苦難の時に、どのように振る舞うべきか、この詩を通して、読者に教えているわけです。

 詩人は、「鳩の翼がわたしにあれば、飛び去って、宿を求め、はるかに遠く逃れて、荒れ野で夜を過ごすことができるのに。烈しい風と嵐を避け、急いで身を隠すことができるのに」(7~9節)と語って、静かに枕出来る宿を切望します。しかし、翼はありません。そして、逃げ出すことも出来ません。

 特に詩人を悩ませているのは、「嘲る者」の存在です。しかもそれは、「敵、憎む者」ではなく、「それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲」という親しい間柄であり、「神殿の群衆の中を共に行き来した」という、信仰を同じくする友なのです(14,15節)。その友が、「自分の仲間に手を下し」(21節)、「抜き身の剣に等しい」言葉で突き刺すのです(22節)。

 親しい友の裏切り行為によって詩人は深く傷つき、立ち上がる力も失ってしまったのではないでしょうか。エレミヤ書9章1節に「荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら、わたしはこの民を捨て、彼らを離れ去るであろう。すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ」とあります。「兄弟ですら信用してはならない」(同3節)というほどに国に暴虐が満ち、逃げ出したいといっているわけです。

 ミカ書7章1~6節にも、国が乱れ、民の腐敗を嘆く預言者の哀歌が記されています。詩人の心も、そのようなものだったのでしょう。

 ユダヤ人をかくまったためにドイツ秘密警察ゲシュタポに捕らえられ、厳しい拷問を受けたというドイツ人の話を読みました。彼はそれに耐えて、何とか終戦を迎えることが出来ました。それなのに、解放されて間もなく、自ら命を絶ってしまったそうです。

 それは、彼をゲシュタポに密告したのが、自分の家族だったと分ったからでした。ナチスに抵抗し、獄中の苦難に打ち勝ったその人も、家族の裏切りというのは、耐えられないことだったのです。

 そのようなときに、「あなたの重荷を主に委ねよ、主はあなたを支えてくださる」という冒頭の言葉(23節)が響きます。力を失ってうずくまり、呻いていた詩人の心に響いて来た神の御声でしょう

 ここで、「重荷」(エハーブ)という言葉は、「くじ」という意味があり、その人に与えられた分、運命という意味にもなります。その意味から考えると、重荷を主に委ねよというのは、荷物を降ろしなさいということにはなりません。「主は従う者を支え」ると言われているように、このような状況の中で主なる神を信頼し、主に従うことが、重荷を委ねるということなのです。

 「従う者」と訳されているのは、ツァッディーク(正しい)という言葉です。口語訳、新改訳は「正しい人(者)」と訳しています。これは、神と正しい関係にある者のことです。つまり、正しい人とは、主なる神に従う者ということです。その人を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださるから、重荷を、運命を主に委ねて、その導きに従えというのです。 

 主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章28~30節)と言われました。

 主イエスは労苦を知らない方ではありません。友に裏切られる苦しみも味わわれました。その友は、接吻という親愛の情を表す挨拶をもって、主イエスを裏切りました(同26章48節以下)。「口は脂肪よりも滑らかに語るが、心に闘いの思いを抱き」(22節)とは、そのときのユダの振舞い、その心境とも考えられます。

 裏切られる痛み、心身の疲労をよく知っておられる主イエスが、私たちを休みへと招かれます。それは、主イエスと軛を共にするため、それによって荷を軽くするためです。主イエスに支えられて立ち上がり、共に前進するためです。

 であれば、パウロが「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります」(ローマ書12章19節)といった言葉も心に留める必要があります。

 つまり、報復する権限は私たちに与えられてはいないということで、だから、報復したいという感情も、報復すべき相手(敵)の取扱も、主に委ねよと言われているのです。私たちのなすべきことについて、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(同20節)、「悪に負けることなく、善をもって悪にかちなさい」(同21節)と告げられます。

 使徒ペトロも「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(第一ペトロ書3章9節)と言い、その根拠として詩編34編13~17節を引用しています(同10~12節)。

 そして、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(同5章7節)と語ります。彼は、主イエスのことを三度、知らないと否んだ経験を持っています(マタイ26章69節以下)。しかし、主イエスはペトロを立ち上がらせ、再び使徒として召されました(ヨハネ21章15節以下)。

 すべてを理解し、受けとめてくださる主イエスの深い愛を味わったペトロは、どんなときにも「わたしの重荷を委ねます」と祈って、信じて従う力を頂いたのです。確かに主は、信じて従って来る者を支え、動揺しないように、思い煩うことがないように、計らってくださるのです。

 主に重荷を委ね、主を信頼して歩みましょう。

 主よ、日本各地を襲った大規模自然災害で被災された方々、犠牲となられた方、その家族を憐れんでください。避難生活をしておられる方々を顧みてください。福島第一原発とその周辺で作業に当たっておられる方々を安全にお守りください。この国の行く末を支えてください。すべての荷を主に委ね、従って参ります。聖霊と御言葉によって導いてください。 アーメン