「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。」 詩編54編6節

 54編は、「神よ」(3節)と呼びかける言葉をもって始まる、個人的な救いを求める祈りの詩です。表題に「マスキール」(1節)とあり、これは教訓という意味です。救いを求める祈りはこのようにすればよいと教える詩だと、編集者が考えたのでしょう。

 3,4節に、救いを求める願いの言葉があります。続く5節に、願いの理由、救ってほしいわけを述べます。そして6節以下には、神が祈りを聞き、助けてくださるという信頼の言、感謝の言葉があります。

 詩人の願いは、「御名によって、わたしを救い、力強い御業によって、わたしを裁いてください」(3節)ということです。「御名」と「力強い御業」、「救い」と「裁き」を同じ意味合いで用いています。「御名」とは神ご自身のことです。「力強い御業」は「力、強さ」(ゲブーラー)という言葉で、神の御力が働くことを示しています。

 ここで、「わたしを裁いてください」(テディーネーニー)とは、「正当に判断してください(judge)、嫌疑を晴らしてください(vindicate)」ということですし、新改訳のように「弁護してください(plead)」という意味にもとれます。不当な裁判で苦しめられているということでしょうか。あるいは、裁判という手続きもなく、乱暴に扱われているということでしょうか。

 詩人を苦しめる敵について、5節に「異邦の者」、「暴虐な者」と記されています。「異邦の者」(ザーリーム)という言葉について、新改訳は「見知らぬ者」、フランシスコ会訳は「よそ者」と訳しています。神の律法を守らない者たちが詩人の命を狙っているということでしょう。また、彼らは、罠をもうけて詩人を陥れようとしてもいるようです(7節)。

 表題に、「ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」(2節)と記されています。それに従えば、ダビデの命を狙うサウル王、あるいはサウルにダビデのことを密告したジフ人のことを、「異邦の者」と呼んでいることになります。

 しかし、「ジフ人」とは、ヘブロンの南東5キロほどのところにある町に住んでいる、ダビデと同じユダ部族に属する人々のことです。また、ダビデの命を狙っているサウル王は、勿論ユダヤ人であって、「異邦の者」ではありません。そのためでもあると思いますが、口語訳や岩波訳では、ザーリームを異読のゼイディームと読み替えて、「高ぶる者、傲慢な者」と訳しています。

 ジフ人がサウルに「ダビデが私たちのもとに隠れている」と話したときというのは、サムエル記上23章15節以下の出来事を指しています。ダビデは、サウル王から逃げる途中、ペリシテに襲われたケイラの町を救いましたが(同23章1節以下、5節)、町の人々はダビデをサウルに引き渡すという恩知らずな仕打ちをするというので(同9,12節)、ダビデはジフの荒れ野に逃れます。

 そのとき、ジフの町の人々がサウル王のもとに行き、「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます」(同19節)と告げ、「王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です」(同20節)と申し出ています。

 ジフの人々は上記の通りユダ部族ですし、ケイラの町もユダの地にあります。いうならば、ダビデは親類縁者から、彼の命を狙う者に売り渡されてしまっているわけです。

 その背景には、ノブの祭司アヒメレクが、ダビデに協力したという理由でお家断絶という仕打ちをサウル王から受けたという事件を上げることが出来ます(同21~22章)。つまり、ジフのホレシャの要害に隠れているダビデを、ジフの人々がかくまっていたという理由で滅ぼされてはかなわないので、サウルに塩を贈ることにしたのだろうと考えられます。

 あるいは、エッサイの末息子がサウルに取りたてられて王の太刀持ちから(同16章21節)、戦士の長(同18章5節)、千人隊の長となり(同12節)、サウル王の婿にもなったことを(同17節以下27節)妬ましく思っていたのかも知れません。サウル王だけでなく、親戚までが敵となる四面楚歌の状況でその心境を詠ったのが、この詩ということになるわけです。

 そうであるならば、この詩を詠んだダビデ、さすがは信仰の人ということになります。誰も味方してくれないという中で、冒頭の言葉(6節)のとおり、「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」と、その信仰を言い表しています。この詩がマスキール(教訓詩)とされる所以です。

 5節で「彼らは自分の前に神を置こうとしていない」と記していますから、それによって詩人は、自分の前に神を置いていると語っていることになります。16編8節に「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」と詠われていました。口語訳は直訳的に「わたしは常に主をわたしの前に置く」としています。

 それは、ダビデ自身が神を目の前に置くというよりも、神がいつも自分の前におられることに気づくということでしょう。いつも神が見えていたわけではありません。時には、神の姿が見えなくなります。失敗してしまうことがあります。苦しい状況に陥ると、神は本当におられるのかと思うこともあります。

 ダビデは、義父サウルから命をつけ狙われます。サウルはダビデの評判を妬み、王位を奪われることを恐れたのです(同18章9節、20章31節など)。だから、ケイラを襲ったペリシテ軍の討伐ではなく、ペリシテの襲撃からケイラを救ったダビデを狙ってサウルは軍を動かしました(同23章6節以下)。

 ケイラをペリシテの手から守ったダビデと、そのダビデの命を狙うサウル、どちらがイスラエルの王にふさわしいでしょうか。しかし、そのところで、ダビデはその恩を仇で返されるような目に遭いました。親戚から売られるという悲哀を味わったのです。

 ダビデは、そのような出来事を通じて、忍耐や従順を学びました。本心に立ち帰って、人間に頼るのではなく、生きておられる真の神に頼ることを学んだのです。ケイラの人々の裏切りと、ジフの人々の密告の出来事の間に、サウルの子ヨナタンがダビデのもとに来て、神に頼るようダビデを励ましたという記事があります(同16~18節)。まさに、苦難の中にも、神の導きが与えられていたわけです。

 神は、御自分を愛する者を「計画に従って召した者」と呼ばれ、彼らのために、万事を益となるようにして共に働くと言われます(ローマ書8章28節)。私たちの助け主、私たちを絶えず支えてくださる主を信じ、「御名によって私たちを救い、力強い御業によって、私たちを裁いてください」と求めつつ、絶えず感謝と賛美を献げて歩みましょう。

 主よ、ダビデの信仰から、苦難によって祈ること、忍耐すること、主に希望を置くことを学びました。耐えられないような試練には遭わせ給わず、乗り越える道も備えてくださることを感謝します。絶えず祈りへ、賛美へと、御名のゆえに正しい道に導いてください。御言葉がこの身になりますように。 アーメン