「主よ、わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。わたしは御もとに身を寄せる者、先祖と同じ宿り人。」 詩編39編13節

 39編は、神の癒しと救いを嘆願する詩です。

 表題に「指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩」とあり、エドトンとダビデを並べています。エドトンはレビ族に属し、ダビデ、ソロモンのもとで「竪琴を奏でながら預言して主に感謝し、賛美をささげた」(歴代誌上25章3節)音楽指揮者の一人です。ただ、作詩者が二人いるはずはないので、「賛美」といったことを意味するような音楽用語なのかも知れません。

 この詩の中に「沈黙」が3度出て来ます。最初の沈黙は3節で、舌で罪を犯さないように(2節)、「沈黙し」(ハーシャー)ていようというものです。これは、「神に逆らう者が目の前にいる」と記されていることから、神に自分の苦しみを訴えることで、神に逆らう者と同じであるとは見られたくないという心理が表されているのでしょう。

 ではありますが、そうしているとかえって苦しみがつのり、黙っていられなくなってしまいました。そこで、「教えてください、主よ、わたしの行く末を、わたしの生涯はどれ程のものか、いかにわたしがはかないものか、悟るように」(5節)と主なる神に尋ねます。

 2度目は10節で、主が答えてくださることを期待しての沈黙のようです。空しく影のように移ろうようなものが人生なら(6節以下)、何に望みをかけたらよいのかと訴えた後、「わたしはあなたを待ち望みます」(8節)と、その期待を表明しています。主なる神が自分にどのようなことをしてくださるか、息を潜め注目する様子をその沈黙に窺うことが出来ます。

 そして最後は冒頭の言葉(13節)のとおり、「わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください」と願い求める言葉が記されています。ということは、詩人の訴えにも拘らず、いまだ主が沈黙しておられるということでしょう。

 これらのことから、この詩人の境遇を想像してみました。詩人は、重い病いを患っているのではないかと思われます。そして、命の火が消えそうになっていると感じているようです(6,7,11,14節)。詩人は、この病いが主によって与えられたものであり、それは、詩人の罪を責め、懲らしめるものと考えています(11,12節)。

 そこで、病いの苦しみと死の恐れから、詩人の心にはさまざまな思いが湧き上がって来るのでしょう。神を呪いそうになることさえあるのでしょう。そんな自分の心の闇を垣間見た詩人は、あわてて口を閉ざします。けれども、やっぱり黙っていられない思いになるのです(3,4節)。

 時には心を奮い立たせ、神を信頼してみようという思いになります。主こそ、詩人の命を御手の中に握っておられるお方だからです。そこで、主が自分をどのように取り扱われるか期待しながら、沈黙し、待ち望んでいるのです(8~10節)。

 けれども、すぐには応答がありません。詩人は悩みます。このまま陰府に降って行くのでしょうか。神は救ってくださるのでしょうか。神よ、黙っていないで何とか仰ってください。これ以上苦しませないでください。私の涙を放っておかないでくださいと、叫び求めます。これは、ヨブが13章21,22節で神に求めたことと同じでしょう。

 詩人は、信仰と疑いとの間で揺れ動きながら、なお主に向かって訴え祈ります。彼の目の前には死の壁が立ち塞がっていて、もう前に進むことが出来ず、それを乗り越える力もないのです。今まで彼が積み上げてきたもの、頼りにしてきたものは、何の役にも立ちません。すべてが空しいものでした(5~7節)。

 主なる神との激しいやり取りの中で詩人が到達した結論は、「わたしはあなたを待ち望みます」(8節)ということであり、そして、「わたしは御もとに身を寄せる者、先祖と同じ宿り人」(13節)だということです。すなわち、神の憐れみなしには生きることが出来ない者であるということ、事ここに至り、一切を主に委ねるほかはないということです。

 歴代誌上29章15節に「わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民に過ぎず、移住者に過ぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません」というダビデの言葉があります。

 これは、死を前にしたダビデが、神殿建築を我が子ソロモンに託し、すべてを主に委ねて賛美する祈りの内に、13節の言葉を引用したかのようにして自らの有様を述べたものです。この言葉のゆえに、詩編の編集者がこれを「ダビデの詩」(レ・ダビード)としたのかも知れませんね。 

 さらに、新約聖書第一ペトロ書2章11節には、「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」とあり、これはキリスト者のことを語っています。確かに私たちは、この世では旅人であり、寄留者に過ぎない者ですが、神の憐れみを受けて、復活と永遠の生命の希望に生かされているのです。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ福音書7章7節)と約束された主イエスが、この詩人の死の壁を打ち壊してくださり、それに代わって彼の前に永遠の命の扉が開いてくださることでしょう。

 私たちも主イエスを信じ、何事につけ、その求めるところを神に申し上げ、あらゆる人知を超える神の平和によって私たちの心と考えとをキリスト・イエスにあって守っていただきましょう(フィリピ書4章6,7節)。

 天のお父様、御子イエスが私たちの大祭司として、御前にあって執り成し祈っていてくださることを感謝します。その祈りに励まされて、どんなことも神に打ち明けます。人知を超える平安をお授けくださるという約束を信じて、感謝致します。栄光が主に限りなくありますように。この地に、主の恵みと導きが豊かにありますように。 アーメン