「主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。」 詩編12編7節

 表題に、「第八調」とあります。これは音楽用語のオクターブを表わす言葉と考えられています。新改訳では、8弦の竪琴による伴奏と訳しています。岩波訳には「正確な意味は不明。最低の音調を表す音楽用語か」という注釈がつけられています。指揮者に伴奏者もいて歌う詞ということであれば、その調子は明るく力強いものだったのかも知れませんね。

 2節に「主よ、お救いください」という祈りが記されています。続けて、「主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました」(2節)と哀歌が歌われ、そして「主に逆らう者は勝手に振る舞います、人の子らの中に卑しむべきことがもてはやされるこのとき」(9節)という哀歌で閉じられます。至る所に悪がはびこっているということです。

 その悪をすべて滅ぼしてほしいと願い(4節)、その悪について「人は友に向かって偽りを言い、滑らかな唇、二心を持って話します」(3節)、「滑らかな唇と威張って語る舌」(4節)と告げ、そして、悪人の「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない」(5節)という発言を記します。 

 弱い者には居丈高になり、強い者にはへつらう。語る言葉と心に思うことが違う二心。言葉による粉飾といえばよいでしょうか。その自信過剰な語り口は、神を無視し、他者を踏みつけにする悪人の振る舞いを自ら表明しています。 

 悪人の発言に対し、「虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう」(6節)と語られた主の御言葉が記されています。詩人はこの言葉をどこで聞いたのでしょうか。もしかすると、悪しき者の発言に心痛めながら神の宮に来て、そこで献げられている礼拝、賛美、祈りに、神の御思いを聞いたのかも知れません。

 そして、この御言葉を聴いた詩人は、冒頭の言葉(7節)の通り、「主の仰せは清い。土の炉で七度練り清めた銀」と応答の歌を歌います。主の御言葉の確かさを、この言葉をもってアーメンとたたえているのです。

 御言葉の確かさ、真実さは、「人は友に向かって偽りを言い、滑らかな唇、二心をもって話します」という3節の言葉と好対照です。「土の炉で七たび練り清めた」とは比喩的な表現ですが、詩人が苦しみ呻き、嘆き悲しむたびに、「救いを与えよう」という主の御言葉が真実だったという経験をしたということではないでしょうか。繰り返し、神の御言葉、その約束の確かさを味わったわけです。

 何度も神の御言葉の確かさを味わうということは、何度も苦しみを経験したということでしょう。そしてその都度、神の御言葉を信頼し、御言葉に従うかどうか、選択を迫られたということでしょう。

 そう考えると、苦しみを通して神の御言葉の確かさを味わうということは、逆に苦しみを通して私たちの信仰が試されるということでもあるわけです。私たちが主なる神を見ているだけでなく、主なる神も私たちを見ておられるのです。

 以前、カトリック教会の「心のともしび」という番組に「心の糧」というコーナーがあり、多くのカトリック信者が、自らの心の糧について原稿を書き、それをナレーターが朗読していました。その中に、三宮麻由子さんという方の話がありました。

 三宮さんは4歳の時に病気で失明されましたが、上智大学フランス文学科卒業、同大学院博士前期課程を修了し、現在、外資系の通信社に勤務しながら、エッセイストとして活躍しておられます。2001年に執筆した「そっと耳を澄ませば」が日本エッセイストクラブ賞、09年には点字毎日文化賞を受賞されました。

 彼女は、渓谷にオオルリという鳥が生息して、川のせせらぎと共にこの鳥の鳴き声が足下から聞こえてくると、その谷の深さを知ることが出来、クロツグミという鳥は、少し開けた畑のようなところにいる鳥で、山に向かって歩いているときに前方の少し高いところから鳴き声が聞こえたら、そのあたりまではこのまま歩いて行ける、そこから先には山があるしるしといった話しておられました。

 そうして、三宮さんは、目が見えなくなったからこそ、真剣に鳥の声を聞き、自然の音の景色を味わうことが出来るようになった、これが見えなくなったことの恩恵だと言われていました。見えないということを、誰もが恩恵と受け止められるわけではありません。いつでもそのように思える、というわけでもないでしょう。

 けれども、確かに耳を開くということ、真剣に耳を傾けるということが、それまで分からなかった新しい恵みの世界を開くということを、そこに示されます。

 闇という漢字は、門構えに音と書きます。闇なのに、光などではなく、音とはどういうことでしょうか。闇とは光がないのではなく、隣人の声が聞こえないことではないでしょうか。確かに、誰の声も聞こえないというのは、孤独の闇の中にいるということでしょう。

 けれども、音の門が開く、他者の声が聞こえるようになるとき、今まで閉ざされていた、否、知らずに自分で閉ざしていた恵みの世界、新しい光の門が開かれるということではないでしょうか。「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」(詩編119編130節)という御言葉もあります。

 主の御言葉を祈り深く聴き、その恵みを自分が受けるだけでなく、周りの方々とも分かち合いましょう。外の光に惑わされず、しっかりと御言葉に耳を開き、自分の課題、問題に御言葉の光を当てることができるように、その確かさ、真実さを味わわせて頂きましょう。

 主よ、私たちは偽る者ですが、あなたは常に真実です。その御言葉に真理があり、命があります。あなたに依り頼む私たちに、御言葉の真実を教えてください。朝毎に、御言葉に耳を傾けます。土の炉で七度までも練り清められた銀のような、真実な御言葉の恵みを、いつも味わわせてください。御名が崇められますように。 アーメン