「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。」 ヨブ記36章15節

 36,37章は、エリフの最終弁論です。

 3節に「遠くまで及ぶわたしの考えを述べて、わたしの造り主が正しいということを示そう」とあります。「遠くまで及ぶわたしの考え」は、自分の知識や思索の広さを示す表現のようです。神の導きによって、遠く神にまで及ぶほどに広い知識を持っているので、そこから、神の正しさについて、ヨブに告げ知らせようという解釈でしょう。

 口語訳、新改訳は「遠くからわが知識をとり」、「遠くから私の意見を持って来て」という訳文で、神からその知識を得たという解釈を示しています。原文の「メイ・ラーホーク」は、口語訳などのように「遠くから」と訳すほうが正しいように見えます。

 一方、岩波訳は「遠くから」を「はるか昔から」としています。その注釈には「字義通りには、『遠くからのもの』。先祖から受け継がれてきた知恵であることを主張する意図を持つ」と記されています。

 「考え」(デイア)は32章で、霊感によって得た「知識」として示されていました。4節に「まことにわたしの言うことに偽りはない。完全な知識を持つ方をあなたに示そう」と告げます。完全な知識を持つ方とは、神ということです。「知識」(デイアー)は「考え」(デイア)の女性形です。この言葉遣いで、エリフの霊感が、その完全な知識を持つ方からのものと告げているようです。

 そして今エリフは、完全な知識をお持ちの方の正しさを、神に代わって証明しようとしているのです。26節で「まことに神は偉大、神を知ることはできず、その齢を数えることもできない」と言いながら、造り主なる神の正しさを証明するというのも、自分の霊感に自信を持っての発言で、ヨブには到底獲得できない知識を披瀝するということでしょう。

 しかしながら、それでは神の霊感を受けて、その御言葉を語るというところから大きく外れ、自分の方がヨブや三人の友らよりも広く豊富な知識を持っていると傲慢に自慢するというものに、成り下がってしまっています。

 そうであるなら、ヨブが「神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか」(13章8節)と友らを批判した言葉が、彼の発言に対する予めの応答になっています。

 5節以下、神は公正に裁きをなされるので(6,7節)、苦難はその罪の重さを指し示し(8,9節)、悪い行いを改めるようにという警告であると告げ(10節)、その諭しに聞き従えば幸いが、耳を傾けなければ苦悩のうちに死を迎えることになるといいます(11,12節)。 

 この文脈で語られる冒頭の言葉(15節)は、貧苦や苦悩は、その人に与えられる悪い行いをやめるようにという警告であり、また神の御言葉に耳を傾け、従うようにという勧めです。

 17節に「罪人の受ける刑に服するなら」、つまり神の裁きを受け入れるならと言われているので、悪い行いを改めるとは、ヨブの場合、潔白を訴え続けるのをやめることを指しているでしょう。そうすれば、彼の受けた貧苦は有効に機能し、そこから救われ、耳が開かれると言うのです。

 このことは、ヨブの友エリファズが5章17節以下に「見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人」と語って、ヨブに悔い改めを促していました。それに納得できなくて、議論を繰り返し、そのような理由で苦しみを受ける謂われはないと訴えていたのを見ていたはずですから、ヨブがエリフの言葉にどのように反応するか、聞くまでもないというところでしょう。

 ただ、エリフの意図、前後の文脈を離れて、素直に冒頭の言葉を読むと、別のメッセージが聞こえてきます。

 当然のことながら、貧しい人、苦悩の中にいる人を救い出すのは神ご自身であって、貧苦や苦悩がその人を救うのではありません。しかし、人は貧苦や苦悩をとおして、新たな道を見出し、かつてなかった喜びを味わうことがあります。貧苦や苦悩が神の御声に耳を開く契機となることがあるのです。

 勿論、苦悩を経験しさえすれば、誰もが自動的に神と出会い、その恵みを味わうことが出来るというわけではありません。卑屈になって殻に閉じこもる人もいるでしょう。周りに八つ当たりする人もいるでしょう。自暴自棄になり、取り返しのつかないことをしてしまうかも知れません。

 その一方で、貧苦や苦悩などは、自分の限界を教えてくれます。それによって謙遜を学びます。そしてそこから大切なことを学ぶことが出来るようにもなります。詩編119編で「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(同71節)と語られています。

 また、「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり、命を得させてください」(同107節)、「苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが、あなたの戒めはわたしの楽しみです」(同143節)と謳われていて、苦難が神の御言葉に心を向けさせ、それが慰めとなり、励ましとなっているわけです。

 神の言葉が貧苦と苦悩の中にいる人を慰めるのは、御子イエス・キリストを十字架につけることよって、神ご自身が自ら苦悩を味わっておられるからです。

       「苦しまなかったら」
   もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。
   もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛はあらわれなかった。
   多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。

 これは、瞬きの詩人といわれた水野源三さんの詩です(水野源三『わが恵み汝に足れり』アシュラムセンター刊より)。

 水野源三さんは、小学校4年生のときに患った赤痢の高熱が原因で脳膜炎を起し、首から下の神経が麻痺して、体を動かすことも、声を出すことも出来なくなりました。そんな源三さんが、お母さんと二人三脚で編み出した自分の表現法、それが瞬きでつづる詩や短歌、俳句です。

 源三さんはこうした苦しみを通して神と出会い、その結果、出会いの糸口となった苦難を神から賜った恵みと考えるようになられたのです。神との出会いに導くために苦しみを与えられたとは思いませんが、主なる神があらゆる出来事を通して私たちを最善に導いてくださると信頼することの出来る方は、本当に幸いです。

 70年前、広島、長崎に投下された爆弾で被爆した方々やそのご家族の苦しみ、未だに被爆者として国に認定されていない方があるという報道もあり、そのやりきれなさはどれほどだろうかと思います。

 また、東日本大震災の被災者、就中、福島第一原発事故の影響で、いまだに避難生活を余儀なくされている方々に、心から主の慰めと平安を祈り、そして、これ以上被爆者を生まないよう、核の管理の徹底を祈り願いましょう。

 主よ、あなたは憐れな人を守り、弱り果てた人を救ってくださいます。私たちの魂を死から、私たちの目を涙から、私たちの足を滅ぼそうとする者から、助け出してくださいました。今、不条理なことで悩み苦しみ続けておられる方々に、主の恵みと平安が豊かにありますように。すべての人々に神の愛が伝えられますように。御国が来ますように。 アーメン