「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵芥に等しくなってしまった。」 ヨブ記30章19節

 前章より、ヨブの嘆きは続きます。かつては、「嘆く人を慰め、彼らのために道を示してやり、首長の座を占め、軍勢の中の王のような人物であった」(29章25節)というヨブでしたが、今は若者らの物笑いの種(1節)、嘲りの的にされ(9節)、息も絶えんばかりになっています(16節)。

 30章には「今」(アッター)という言葉が、1,9,16節(「もはや」と訳されている)にあったーというのは、単なる駄洒落ですが、23節までの箇所が、「今」という言葉で始まる三つの段落で区切られています。

 ヨブを物笑いの種にした若者らのことを1節以下の段落で、「彼らの父親を羊の番犬と並べることすら、わたしは忌まわしいと思っていたのだ。その手の力もわたしの役には立たず、何の気力も残っていないような者らだった」(1,2節)、「愚か者、名もない輩、国からたたき出された者らだった」(8節)などと言います。

 「身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守った」(29章12節)と言っていたヨブが、そのような侮辱的な言葉で彼らのことを描写するとは、どうしたことなのでしょうか。

 情け深い王のようなヨブが(同25節参照)、絶えず心にかけ、守り、助けていた相手から、嘲りの言葉、振る舞いを受けて、実は彼らは、最も軽蔑していた人々なんだ、彼らは、人間社会から完全に疎外されたような輩だったのだというのです。最も軽蔑していた輩から、嘲りを受けるような存在になってしまったと、自己卑下する表現として語っているのでしょう。

 9節以下の段落では、どのような嘲りや屈辱的な振る舞いを受けたのか、語り出されています。それが、29章7~17節の、ヨブの情け深い行為に対する報いなのだとすれば、まさに恩を仇で返されたということになります。

 神に守られ(29章1節)、神との親しい交わりの中にあって(同4節)、正義と公平を旨として歩んで来た(同14節)ヨブが、神の守りを失い、無残な姿になっているのを見て、彼を自分たちのところから追い出すのです(13節以下)。それは、町からということもあり、そして、生きている者たちの間からという意味でもあります。「死の破滅がわたしを襲い」(15節)とあるからです。

 16節以下の段落は、嘲られ、屈辱的な振る舞いを受けた結果、ヨブの現状の姿が述べられています。神の手に守られていたヨブが、「夜、わたしの骨は刺すように痛み、わたしをさいなむ病は休むことがない」(17節)、「病は肌着のようにまつわりつき、その激しさに私に皮膚は見る影もなく変わった」(18節)という有様です。

 そのような苦しみの中で叫ぶ声を神は無視したうえ(20節)、「あなたは冷酷になり、御手の力をもってわたしに怒りを表される」(21節)と、神の手によるひどい扱いを告発します。そして、「わたしは知っている。あなたはわたしを死の国へ、すべて命あるものがやがて集められる家へ、連れ戻そうとなさっているのだ」(23節)と結論します。

 29章4節の「神との親しい交わりがわたしの家にあり、わたしは繁栄の日々を送っていた」という、命と栄光に輝いていたヨブの家は、今や死者の集うところに変えられようとしています。

 冒頭の言葉(19節)の「泥」(ホメル)は、4章19節の「人は塵の中に基を置く土(ホメル)の家に住む者」、10章9節の「土くれ(ホメル)としてわたしを造り」という言葉から、人の肉体をあらわすものといってよいでしょう。

 「塵芥」は、「塵」(アーファール)と「芥」(エーフェル:「灰」の意)という言葉です。二つ並べられるとき、「塵」は、創世記2章7節の「土の塵で人を形づくり」という、人の起源を示し、「芥=灰」は、命の燃え尽きた残りかす、人の宿命を示します。いかに価なくはかない存在かといった表現です。

 「塵芥」と二つ並べる言い方が、旧約聖書にもう一箇所登場します。それは、創世記18章27節です。それは、アブラハムが神に「塵あくたにすぎないわたしですが」といって、ソドム、ゴモラにいるロトを守ろうとして執り成す場面の一節です。

 神の前に謙った姿勢を示すものですが、しかし、そこでアブラハムのしているのは、「正しい者と悪い者を一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界で裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」と、無鉄砲にも神に公正な裁きを願い訴えているのです。

 ヨブがここに、「塵芥に等しくなってしまった」というとき、単に死ぬべき運命だというだけでなく、にもかかわらず、「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない」(20節)、それでいいのですか、全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんかと、勇気をもって告発しているわけです。 

 ヨブは、このままで終わりたくはないのです。だから、諦めきれずに神に向かって叫ぶのです。24節で「人は、嘆き求める者に手を差し伸べ、不幸な者を救おうとしないだろうか」と問い、続く25節で「わたしは苦境にある人と共に泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか」と反問しています。

 これらの言葉で、不完全な人間でさえそうするのであれば、まして主なる神は、嘆き求め、苦境にある自分に手を差し伸べ、救って下さるはずだ、それなのに、未だそれが実現していないと、神を非難するヨブの思いが示されています。

 とはいえ、それならもう主なる神に頼らない、主を呼び求めることはやめるということではありません。未だ、神の答えが得られず、神が自分に目を留めておられないと思うからこそ、ヨブは嘆き、神に訴えるのです。

 ここに、「ヤベツの祈り」の祝福が見えて来ます。ヤベツの祈りとは、「ヤベツがイスラエルの神に、『どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください』と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた」と、歴代誌上4章10節に記されているものです。

 ヤベツは、母の苦しみを背負って生まれて来ました。「母は、『わたしは苦しんで産んだから』と言って、彼の名をヤベツと呼んだ」(同9節)と記されているとおりです。なぜ、母が苦しみの中でヤベツを産んだのか、その苦しみとはどのようなものであったのか、正確なところは皆目分かりません。

 しかし、ヤベツは神に向かって「わたしを祝福してください」と願い、「苦しみを遠ざけてください」と求めました。きっと、来る日も来る日も、神の恵みと憐れみを祈ったことだろうと思います。そしてそれは、もともとヤベツの母親が祈っていた祈りかも知れません。そして、ヤベツがその祈りを引き継いだのです。

 そのたゆまぬ祈りが神に聞き入れられました。そして、この諦めない祈り、神に信頼してやまない信仰心が、兄弟たちの尊敬を集めることになったのだと思います(同9節)。

 主イエスも、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えられました(ルカ福音書18章1節以下)。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる逆風の中で、しかし、「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40章31節)者とされます。

 ヨブの訴え、ヤベツの祈りに倣い、死者の中から復活された主イエスの恵みによって日々強められ、御言葉に従って歩み、信仰をもって祈りをささげましょう。

 主よ、あなたが私と共にいて私を助け、恐れるなと言い、救いの御手で私を支え、たじろぐなと語ってくださることを感謝します。私たちを大いに祝福してください。御名の栄光を拝することが出来ますように。 アーメン