「神は知恵を見、それを測り、それを確かめ、吟味し、そして、人間に言われた。『主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別。』」 ヨブ記28章27,28節

 27章で自分を苦しませる神と友らに、自分自身に誓って自らの潔白を主張したヨブが、28章では一転して、「神の知恵の賛美」をしています。 

 人は、地の底から金や銀、銅などの鉱石、また高価な宝石を見つけ、掘り出すことが出来ます。5節の「下は火のように沸き返っている」という文言について、これは地下のマグマのことを指していると考えてよいでしょう。

 食物(レヘム:「パン」の意)を産み出す大地も、その下では火が燃えていて、鉱石にサファイヤが混じり、金も含まれます(6節)。「鉱石」(エベン:「石」の意)とサファイヤ、「粒」(アーファール:「塵」の意)と金という組み合わせは、訳語とは別の意味合いがありそうです。

 ヨブは、23章10節で「神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」と語っていました。塵となる運命のヨブが、火で試されて金のようであることが分かるというのです。

 3節の「人は暗闇の果てまでも行き、死の闇の奥底をも究めて鉱石を探す」という言葉には、全く希望がない地震の様子を言い表した10章22節の「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇が光となるほどなのだ」という言葉と同様の言葉が用いられています。

 「死の闇」(オーフェル)は、ヨブの口からしか聞けない言葉で、3章6節、23章17節でも用いられていました。ヨブは自身の塵となる運命、生涯の最後の暗さを嘆いていましたが、暗黒の塵の中に貴金属の鉱石が隠されているように、彼はこのイメージを思い巡らす中で、自分自身の内側を探っていたのではないでしょうか。

 ダビデ・ソロモン時代に、既に金や銀という貴金属のほか、青銅という合金を造ったり、鉄を製造する技術があったことが分っています。三千年も前の人々が持っていた知識、技術の高さに驚かされてしまいます。どんなに強い猛禽類、猛獣でも見出せず、手に入れられないものを(7,8節)、人は見出し、採り出す技術を開発して来ました(9節以下)。

 それにも拘らず、人は知恵を見つけ、それを手に入れることが出来ません(12節)。人が知恵の在処を知らないのは、「命あるものの地には見出されない」からです(13節)。海や深い淵も「わたしの中にはない」(14節)と言います。

 また、「知恵は純金によっても買えず」(15節)、「金も宝玉も知恵に比べられず」(17節)という言葉で、ヨブのいう「知恵」は、この世のどんな価値あるものでもそれと較べることができず、代価を支払って手に入れることのできないものであることが強調されます。

 その在り処、そこに至る道を知っているのは、神ただお一人だけです(23節)。24節以下の言葉から、その知恵とは、天地創造に関する知恵のようです。確かに、天地がどのように創造されたのか、どのようにして全宇宙のバランスを取っておられるのか、命が存在する惑星をどのようにして生み出されたのか、分からないことだらけです。

 このことで、蛇に唆されて善悪の知識の木からとって食べたという創世記3章の記事を思い起こします。その木の実は、神に食べることを禁じられていたものでした。その禁を破ったのは、「目が開けて神のように善悪を知る者となる」(同5節)という誘惑でした。

 けれども、木の実を食べた結果、彼らが手にしたのは、神のように善悪を知る賢さなどではありません。「生涯食べ物を得ようとして苦しむ」(同17節)こと、「塵に過ぎないお前は塵に返る」(同19節)ということでした。

 神はここで、人の到底獲得し得ない深遠な知恵を独り占めして、一人悦に入っておられるようなお方ではありません。冒頭の言葉(28節)で、「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」であると、神ご自身の言葉として語られています。

 ただ、ここにきて初めてヨブがそのことを悟ったというのではないでしょう。箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」とあり、またコヘレトの言葉12章13節に「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」と語られているように、これはむしろ、伝統的な信仰姿勢といってよいでしょう。

 つまり、それはずっと前から知られていたことです。しかし、突然の悲劇、大変な苦難を経験して、その知恵に疑問が生じました。そのことで、ここまで友らと議論を重ねて来たのです。

 どういう経路でここに立ち戻ったのか、定かではありませんが、彼がこのように告げるとき、それは、元に戻ったということではなく、火のような試練にあって日の光の見えない暗黒を経験し、必死に出口を求めて呻き続け、求め続けて来て、あらためて神の言葉が響いたということでしょうか。

 あるいは、人の知り得ない知恵をもって、ご自身のかたちに創造された人のうちに、神はその知恵を隠しておられ、神がきっかけをお与えくださるときに、その知恵が開かれて、神を畏れ敬わせ、悪を遠ざける歩みをすることができるようになるということでしょうか。

 神のなさることに無意味なものはなく、自分にとってそう思うことが難しくても、それは常に最善であること、最善以下をなさることはないと信じましょう。日々主の御言葉に耳を傾け、常に御顔を慕い求めましょう。

 主よ、あなたはすべての者を憐れむために、すべての人を不従順の状態に閉じ込められました。神の富と知恵と知識のなんと深いことでしょう。誰が神の定めを窮め尽くし、神の道を理解し尽くせるでしょうか。すべてのものが神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が世々限りなく神にありますように。 アーメン