「わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。」 ヨブ記27章6節

 25章のビルダドの発言に対して26章で反論したのに続き、ヨブは27章で誓いの言葉を口にします。その結論が、冒頭の言葉(6節)です。

 2節で「わたしは誓う」というのは、原文で「神は生きている」(ハイ・エール)という言葉ですが、これは、誓いを立てるときの定型表現なので、そのように訳されているわけです。

 4節を直訳すると、「もしわたしの唇が不義(アヴェラー)を語るなら、もしわたしの舌が偽り(レミーヤー)をつぶやくなら」という言葉遣いです。その帰結が記されていませんが、5節前半につながっていると見てもよいでしょう。

 5節の「断じて」は「わたしにとっては断じて」(ハリーラー・リー)という言葉です。5節前半を直訳すると、「わたしにとっては断じて、もしも、わたしがあなたがたを正しいとするなら」という文章になります。

 分かりやすく訳せば、「わたしがあなたがたを正しいとするなら、わたしは呪われよ」ということでしょう。つまり、「わたしにとっては断じて」というのは、自分自身を呪う言葉なのです。「恥を知れ」と訳した聖書もあるようです。

 さらに、5節後半の「死に至るまで」は、「たとえ息絶えることがあっても」という意味で、「たとえ息絶えることがあっても、潔白を主張することから離れない」という文章になり、命をかけてそれを守るという、誓いの言葉といってよいでしょう。

 6節までに、三つの誓いの表現があり、内容的にも、①2,3節、②4,5a節、③5b,6節に分けられます。①は神に対して、②は自分自身に対して、そして③は潔白と正しさに焦点を合わせています。

 2節の「魂」(ネフェシュ)、3節の「息吹」(ルーアハ)、「息」(ネシャーマー)という命に関する三つの言葉と、3節の「鼻」、4節の「唇」と「舌」という体の三つの器官とが対応していて、「骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている」(19章20節)と息も絶え絶えの様子だった者が、今ここに力があふれているような表現を用いています。

 生まれなければよかった、生まれてすぐ死ねばよかった、早く死にたいという表現で、独白を始めたヨブでしたが(3章参照)、ここまで友らとの対論を重ねて来て、ただ苦しく辛いだけ、空しいだけではなかったということでしょうか。あるいは、ヨブ自身が分からないかたちで、神の力、助けに与って来たということでしょうか。

 しかし、「断じて、あなたたちを正しいとはしない」(5節)というのは、友らの意見に首肯できるものではないという強い思いが示されます。だから、「わたしに敵対する者こそ罪に定められ、わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ」(7節)と断罪し、13節以下に、悪人のたどる運命を列挙しています。

 これはまるで、20章のツォファルの発言のようです。そのような読み方をする註解者もいます。その真偽は分かりませんが、「自らの正しさに固執して譲らない」(6節)ヨブが、自分を苦しめた友らのたどる運命として、それを語ったという解釈もできるでしょう。

 これまで自分に向けて語られて来た、神に逆らう者が被る報いについて、友らに向かって述べるというところに、他者を裁く者はその裁きで裁き返され、呪う者は呪い返されるという構図が完成します。ただ、そのように友らを裁き、罪に定めることは、正しいことでしょうか。「一日たりとも心に恥じることはない」(6節)という人のすることでしょうか。

 正しい者がなぜ災いをこうむるのかということで苦しんできたヨブですが、彼は今もまだ、正しいことをした者には神の恵みが、神に逆らうものには神の裁きが臨むという、伝統に基づく価値観の上に立っているわけです。

 自分の正しさに固執して、その自分に対する神のなさりように、神の不義をいうヨブが、他者の罪に対する義なる神の処罰を語るというのは、明らかに矛盾です。10節で「全能者によって喜びを得、常に神を呼び求めることができるだろうか」と語るヨブにそのとき、全能者による喜びがあったとはいえないでしょう。

 ただ、苦難の中から希望を見出そうともがき、呻いて、苦しみからの解放をひたすら待ち望んでいるわけです。まるで、嵐の海に浮かぶ舟の中で枕して眠っている主イエスをたたき起こし、私たちが溺れ死んでもかまわないのですかと、取り乱して叫んでいたペトロのような(マルコ4章38節)、平安を失い、希望を失ってしまった姿です。

 とはいえ、主イエスはそのペトロの叫びを無視なさいませんでした。嵐を鎮め、目的地に無事たどり着かせてくださいました。それは、彼らの信仰の結果などではありません。主の恵みです。主を呼び求めることのできる幸いを思います。

 私たちは、自分の知恵や力ではなく、主イエスを拠り所とし、常に主イエスを呼び求め、主イエスの平安に与らせていただきましょう。

 主よ、どんなときにも思い煩うことなく、何事でも感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているところをあなたに打ち明けます。あらゆる人知を越えるあなたの平和で、私たちの心と考えを、キリスト・イエスによって守ってください。主の恵みと平安が常に豊かにありますように。 アーメン